家族の絆を考える
ブタとイノシシ
長寿社会
ナイジェリアには次のような神話があるそうです。
「…世界創世のころ、神は人間とウマとイヌとサルを前にして、「それぞれに三十年の命を与える」と申し渡した。最初にウマが立ち上がって、「わがままな人間と一緒では、三十年は長すぎます。十五年でけっこうです」と。わきにいた人間はすかさず、その十五年をもらい受けたいと申し出て、人間の寿命は四十五年に延長された。つづいてイヌも辞退を申し出た。「人間と一緒なら、十五年で十分です」すかさず人間はその十五年ももらい受ける。最後にサルも同じ理由で十五年を返上し…人間の寿命はさらに延びることとなった。そのためか、人間が本当に人間らしく生きられるのは最初の三十年間で、つづく十五年間はウマの如く働かされ、次の十五年間はイヌの如く走りながらどなりちらし、最後の十五年間はサルの如く生きるのだという。…」
(『医者が癌にかかったとき』竹中文良著より)
「人間らしく生きられるのは三十歳まで」とは、考えさせられます。皆さんは今、何の時代を生きておられますか。「サルのように」とは、サル社会はボス猿の座をめぐって、凄まじい権力闘争があるそうですが、言い得て妙。示唆に富んだ神話だと思います。でも現代日本は更なる高齢化社会。サルより後期は何のように生きるのでしょう。ともかく「一緒だけは絶対にイヤ」と、他の動物からそっぽを向かれる人間が「地球に優しく」とか「共生」を口にする。良いことの筈だった「共生」なのに、共に生きてもらえない。ある記録映画で、人間の姿を見ただけで気絶してしまう動物を観たことがありますが、一体人間はどんな動物なのでしょうか。
「三十歳までは人間らしく」とは言うものの、そもそも「人間」とはどういうものか、その内容を問いただすのが教えの言葉です。
人間も「家畜」の一種?
現代社会は田舎も都会も程度の差はあれ、均質化し都市生活となりつつあります。抗菌グッズに冷暖房完備の住宅、管理された衣食住。自分の足よりも乗り物を利用し、体力や抵抗力は低下しています。またそんな生活をみんなが望み、「文明」と夢見てきたのではないでしょうか。例えば、狭いケージでひたすら餌を食べ、卵を産み、眠るニワトリの姿と、空調のきいたオフィスで終日仕事をする姿は何となく似ています。人間はニワトリを「家畜」と呼び、管理しますが、知らず知らずのうちに、同じことを人間自らに対してもやっているのではないか。そう警告するのが「自己家畜化現象」の概念です。
ブタとイノシシ
例えば、野生のイノシシを家畜化したものがブタですが、ブタは家畜化されるに従って、口先は短くなり、身体から毛が抜けて脂肪が付き、牙も退化しました。脳を比較すると、イノシシの方がはるかに優秀なのだそうです。野生で生きるには自分で餌を探し、生き抜いていかねばなりませんが、家畜は人間が管理する囲いの中で、与えられる餌をただ食べ続けるだけでいいのです。自然の脅威がない上、人間も家畜をできる限り守ろうとする、そういう安穏さの集積が知能の退化を招いたといいます。体力や、病気に対する抵抗力も弱まり、ブタを自然に放置すると死んでしまうのだそうです。
丸裸の現代人をあらためて見つめてみると、敵から身を守る歯や爪が退化しつつあります。足の指も自由には開きません。使わない機能はどんどん退化していき、弱体化して遺伝します。もしジャングルに投げ出されたら、何日生きられるでしょう。都市の文明なしには生きられない全く弱い生物なのです。
劣化した現代人
身体的のみならず、精神的にも軟弱で、朝は目覚まし時計に起こされ、会社では上司に従い、パソコンに使われ、ケータイに繋がれる。一日の中でどれくらい、自分の頭で考え、行動したのでしょうか。ケータイ的な活字に慣れ、長文は飽きて読むことができなくなる。「より大きな文字で分かりやすく」を追求した結果、新聞の情報量はこの二十年間で三分の二に減った、との分析もあります。「なぞる本」がヒットし、「あらすじで読む名作」、「サビで聞く名曲」といったシリーズがうける時代です。活字だけでなく、モラルや生きる力まで「低下」ではなく、もはや「劣化」したと精神科医、香山リカ氏は指摘されます。
聞法道
隣寺の住職さんはいつも自転車で仕事をしておられます。特に夏の炎天下で自転車をこぐ堂々たる姿に出会うと、クーラーの効いた車内でさえ文句しか言わない自分が恥ずかしくなります。住職さんは「私は文句を言わないことにしています」。健康な赤銅色に焼けた顔は爽やかで、生きた言葉は聞いた者にいつまでも残ります。「親を困らせたかった」としか言えない人生もあれば、文句は言わないと、晴れ晴れした人生もある。
両方が自分なのだと思います。調子が良ければ舞い上がり、落ちれば自暴自棄になる。縁がくればどんなこともしてしまう私、親鸞聖人は「無慚無愧のこの身」と自身を表白されました。畜生の道を卒業するわけではありません。むしろ畜生なるわが身を聞いていくことなのです。どんな時代でもありのままの私を聞く「聞法の道」があります。特別なことではありません。先人の歩まれた古道を、また私も歩む。懐かしく確かな道です。