法宝物と建物
佛光寺の法宝物
ご本尊 阿弥陀如来立像
撮影 藤森 武
寄木造彫眼。納衣を通肩に着て両手で来迎印を結ぶ。
像底は約2センチ上げ底。温和な尊顔と長い脚が特徴。
制作年代は平安末期と推定され、すぐれた彫技の像である。了源上人の山科佛光寺造立勧進帳に見られる、「弥陀の尊形においては、有縁の古像を得てこれを渇仰し」とあるその像に相当すると思われる。
納衣に盛上彩色と截金とで精緻に袈裟の文様を現しているが、あるいは了源上人が取得された際に加えられたものかもしれない。
(木像、高さ99.5cm)
聖徳太子立像(昭和14年 重要文化財指定)
撮影 藤森 武
寄木造で体内を内刳し、眼に玉眼を嵌入する構造。
髪は美豆良に結い、袈裟と横被をつけて立つ少年の姿。父・用明天皇を看病された際の姿と伝えられる。右手にシャク、左手に柄香炉をもっているのは、初期真宗教団でとくに好まれた形式。
元応二年(1320)、了源上人が山科に念仏の道場を建てるとき、太子像を新造されたことが勧進帳に見えるが、昭和9年に胎内からそれを裏付ける記録と了源上人の師、了海の遺骨が発見された。
仏師は尾張法印湛幸で元応二年正月二十八日に開眼されている。
理知的な風貌に豪華で写実的な衣装のすばらしい彫像で、現存する太子像の中、最高作品の一つとされている。
(木像、高さ94.5cm)
光明本尊
名号および釈迦・弥陀二尊、諸高僧先達を配し、後ろから光明が輝く、独特の本尊図。(滋賀県浅井町 西通寺蔵)
光明本尊とは畳一枚ほどの大型の絹布の中央に南無不可思議光如来の九字(あるいは八字)の名号を書き、その両側に印度・中国・日本の三国の高僧と聖徳太子の像を描いたもの。
親鸞聖人の没後、南北朝にかけて多く作られ、特に佛光寺派末寺に伝来しているものが一番多い。
写真は滋賀県西通寺蔵のもので、見事な画技による立派な作品であると同時に、裏書があり、文和5年(1356)に法橋良円の手にかかることが知られる。
この種の本尊のうちでは最高の作品と思われる。
絵系図(昭和60年 重要文化財指定)
絵系図は、了源上人の頃、念仏にいそしみ、ともにお浄土へまいろうという仲間意識から、その道場に所属する門徒の肖像を描いて名簿代わりとしたもの。
師弟関係を明確にするため、系図の形をとっているので、絵系図と呼ばれる。
了源上人が本願寺存覚の指導を受けて製作したのが始まりと考えられる。
本山に伝わるものはその最も原初的なもので、「序題」と呼ばれる巻頭の趣意書や像主の法名は存覚自身の筆跡と認められる。
写実的な了源上人の面貌や了明尼もいかにも女性らしく描かれている。
(紙本着色、縦42cm、全長491.4cm)
建物について
阿弥陀堂
本堂。本尊阿弥陀仏を安置する。
間口15.6m、奥行21.25m。単層入母屋造本瓦葺の建築。
内陣須弥壇上に阿弥陀如来立像、両脇壇に聖徳太子像と法然上人坐像、両余間に竜樹・天親・以下六高僧の坐像と後醍醐天皇の位牌を安置する。
明治37年再建。
大師堂
親鸞聖人坐像他を安置する。
大師堂(御影堂)は、間口26.5m、奥行33.1m、それに間口10.2mの向拝をつけた単層入母屋造本瓦葺の巨大な木造建築。
内部須弥壇上に親鸞聖人の坐像、両脇壇に中興了源上人の坐像と前住上人の絵像とを安置し、両余間に九字と十字の名尊号を掲げる。
明治17年再建。
佛光寺本山 各門
佛光寺には以下の4つの門があります。
阿弥陀堂門(本堂門) 四脚門で、屋根は切妻造ながら前後に唐破風をつけた銅版葺。明治12年の建立。 |
御影堂門 切妻四脚門。扉や脇、腰の各所を彫刻で装飾している。 |
勅使門 |
玄関門 |