真宗佛光寺派 本山佛光寺

家族の絆を考える

ほとけの子

「抱っこ、抱っこー」と言って飛びついてくるのは小学生になる娘。

 幼稚園の頃ならまだしも、小学生ともなれば受け止める方も落さないようにと大変。

 それにしても子どもは抱っこされるのが大好きです。

 

では、子どもは抱きつこうとするその瞬間、何かを考えているのでしょうか?

 「この親に飛びついても本当に大丈夫なのか?」。

 「ちゃんと受け止めてくれるのだろうか?」。

 なんてことはおそらく思っていないはずです。

 意識せずとも、親のこころをわかっているのでしょう。

 だからこそ飛びついたあとはどうなっても、すべておまかせなのです。

 

では、どうしておまかせできるのでしょうか?

 動物園にいるサルの赤ちゃんを思い浮かべてください。

 彼らは腕の力が強く、生まれてすぐに親にしがみつくことができます。

 一方、人間の赤ちゃんではどうでしょう。

 人間の赤ちゃんはその点では全く頼りないもので、自分の方から親にしがみつくことができません。

 親からの一方的な保護、つまり抱きしめられるという行為が必要なのです。

 しかもサルは実の母親しか受け付けないのに対して、人間の場合は実の親でなくても問題ありません。

 抱きしめた人が赤ちゃんの親としてのはたらきをもつ。

 自分の力で親にしがみつくサルに対して、人間の赤ちゃんは生まれながらにして、おまかせの世界を生きているのです。

 

では、抱っこされることには何か意味があるのでしょうか?

 公共広告機構の広告に左記の詩が掲載されていました。

    子どもの頃に

  抱きしめられた記憶は、

  ひとのこころの、奥のほうの、

  大切な場所にずっと残っていく。

  そうして、その記憶は、

  優しさや思いやりの大切さを教えてくれたり、

  ひとりぼっちじゃないんだって思わせてくれたり、

  そこから先は行っちゃいけないよって止めてくれたり、

  死んじゃいたいぐらい切ないときに支えてくれたりする。

  子どもをもっと抱きしめてあげてください。

  ちっちゃなこころは、いつも手をのばしています。

(公共広告機構)

   この詩にあるように、子どもは抱きしめられると、自分のすべてを受け止めてもらえたという、この上もない安心感を持つのでしょう。

 そして、おおいなる満足感に包まれ、生きていく力を得るのです。

 

では、大人の場合はどうなのでしょうか?

 子どもと同様に、大人も何かに抱っこされたいという気持ちを、こころの奥底に持っています。

 この私を包み込み、こころを安らげてくれる大きなものに。

 でも大人になって「今さら抱っこなんて」と思われるかもしれません。

 確かにいい歳して親に抱っこされるといっても、その親がもう亡くなっていたり、無理に飛びつくとケガさせてしまうことになるかもしれません。

 

では、誰に抱っこされるというのでしょうか?

 真宗では阿弥陀さまのことを親さまと呼ぶことがあります。

 親のように慈しみのこころをもって、この私を抱いて下さるからです。

 私たちひとりひとりは、親さまに願われている仏の子なのです。

 

では、子どものようにおまかせできているのでしょうか?

 人間の赤ちゃんは親におまかせなのですが、仏の子である私たちはというと・・・。

 親の胸に飛び込むかのごとく、何もかもおまかせできていないのが現実です。

 おまかせできないのは、親さまの願いに気づこうとしていないから。

 いつでもどこでも、この私を包み込み「あるがままを生きよ」という願いに。

 その願いに出遇えたときには、安心感に包まれた人生を送ることが出来るのですが。

 

では、あなたはどうなのでしょうか?
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