今月のともしび
常照我
イラスト 岡山県真光寺住職 守城尚子さん
(略歴)成安造形大学メディアデザイン領域CG・アニメーションコース卒業。株式会社ピーエーワークスに約三年勤務。退職後に岡山県真光寺住職を継職。現在は、放課後児童クラブ支援員、イラストレーターを兼業。
桜の花びらが地面を彩る春。
和歌や俳句では、
桜は「散る」
梅は「こぼれる」
椿は「落ちる」
牡丹は「崩れる」
など、花ごとに違った表現を用いる。ゆるやかな時間の中で生きた先人たちは、花を最期まで慈しみ、いのちのはかなさに心を寄せていた。
現代の私たちは日々を慌ただしく過ごし、花を愛でる余裕すらないこともしばしばだ。さらに時間に追われる暮らしは、私たちが散りゆく身であるという足元の事実をもぼやかしてしまう。
生も死も、無数の繋がりの中にあるお陰様である。忙しい日常だからこそ、仏様の前に座る特別な時間が大切なのだ。死を見つめ、生を問い直す暮らしを念仏の日暮らしと呼ぶ。
(機関紙「ともしび」令和7年4月号 「常照我」より)
親鸞聖人のことば
如来の智慧海は
深広にして涯底無し
『顕浄土真実行文類』より(『佛光寺聖典』二二二頁)
【意訳】
阿弥陀如来の智慧は海のように深く広くて限りがありません。
久しぶりに太平洋を見ました。春の陽光が燦々と輝く一面の大海原はまさに壮観でした。
大海のもつイメージ
私は若い頃、海で溺れた経験があって、海を見ると身のすくむ感じが今も残っています。
ボートで沖合に出て、泳いでいたときに足がつって溺れました。幸いに、一緒に来ていた友だちに助けられました。
そのときに見た波打つ大海原の景色と、足がまったくつかない底無しの感覚は、怖さとともに記憶に残っています。
だから泳ぐときは、プールのように周囲が見え、足裏で底を確かめられないと不安です。
その一方で、こうした見晴らしの良い高台から大海原を一望すると、実に晴れ晴れとします。
大海のような智慧
水平線の広がる青い海を眺めていると、私がこれまで悩んできたことなどが、ちっぽけなことに思えてきます。
自分のものの見方や感じ方が、枠に囲まれたごく狭い世界での人間関係や特定の価値観にとらわれたものであったことに気づかされます。もっと広い世界や別の価値観があると思うだけで心が安まってきます。
と同時に、溺れたときのあの感覚も頭をよぎります。あの時、底無しの海を怖れたように、際限のないものに一線を引いて壁を作ってきたのが他ならぬ私自身であったことも、間違いないことです。
仏さまの深く広い平等無差別の智慧は、私にとって不可知であり少し怖くもあります。でも、その智慧にふれると、我が身の浅さや狭さが照らし出されます。そして併せて、自ら壁を生み出して自ら苦しむ私自身の姿も照らし出されてくるのです。
(機関紙「ともしび」令和7年4月号より)
仏教あれこれ
「自是他非」の巻
春先、久しぶりの一泊の懇親会。会場は近くの旅館で、わたしが幹事になりました。
案内状作りから参加人数の連絡と、なかなか大変です。いつも締め切りを守らない困ったあの人には、電話で出欠確認も。
当日の懇親会では、みんなを楽しませる司会役です。飲み物の不足がないか気にしながら、でも予算内には収まるように。飲み過ぎてる彼をチェックしながら、締めの挨拶までを円滑に。なんて気の回る幹事でしょう。
二次会のカラオケで、ようやく幹事役を忘れて昭和歌謡を熱唱。酔いがどんどん回ります。
翌朝は、みんなが食事をしている間にフロントで会計です。何とか追加徴収なしで、ほっとしました。
家に帰って午後になると、旅館から電話がありました。部屋に忘れ物があったとのことです。
「あーあ誰だ、困った人は」とブツブツ言いながら、旅館へ戻ります。忘れ物をしそうな人の顔が、頭に浮かびます。
フロントで「お手数をかけました」と忘れ物の件を伝えると奥から出してこられたのは、ベルトと靴下でした。
「誰のだろう」と見つめた瞬間に、顔が熱くなりました。
そうです。ベルトも靴下も、わたしのものでした。係の方にお礼を言うと、そそくさと旅館をあとにしました。もちろん、わたしの忘れ物だとは言わないままで。
帰り道、「自是他非」ということばが頭に浮かんできました。
自分はいつも正しくて、他の人が間違っているという思いで生きている私の姿。……ああ恥ずかしい。
(機関紙「ともしび」令和7年4月号より)