今月のともしび
常照我
イラスト 岡山県真光寺住職 守城尚子さん
(略歴)成安造形大学メディアデザイン領域CG・アニメーションコース卒業。株式会社ピーエーワークスに約三年勤務。退職後に岡山県真光寺住職を継職。現在は、放課後児童クラブ支援員、イラストレーターを兼業。
法事に来られる予定の親類が突然亡くなった。当日は親類同士で一泊し、ランチを…と計画していた矢先であった。
「参加」に丸のついた返信はがきを手に「生死事大 無常迅速」の仏語をかみしめる。
禅寺で時を告げるために打ち鳴らす木版にこの語は刻まれる。
「生死の問題は一大事である。世に常なるものはなく、時は瞬く間に過ぎる」。そう告げながら時が打ち鳴らされるのだ。求めるべきものを求めねば、命の時間は短い、急げよ、と。
「またあした」「また今度」のない我々であったと気づかされる。生きてある今、出遇い得ている縁を大切にしなければ。私はその時その時をかけがえのないものとして大切にできていただろうか、この一年の自身の生き方に問いかけてみる。
(機関紙「ともしび」令和6年12月号 「常照我」より)
親鸞聖人のことば
善悪のふたつ、
惣じてもって存知せざるなり
『歎異抄』より(『佛光寺聖典』八一〇頁)
【意訳】
自分には、何が善いことで、何が悪いことであるのか、まったくもって知る由もないのです。
小さな夢
昨年の春には長女が、そして今春には次女が大学を卒業し、社会人となりました。
娘二人が私の手を離れたら……と、胸にあたためていた思いがありました。それは、大型バイクの免許を取得すること。フェリーで北海道へ渡り一周してみたい。北の国を舞台にしたドラマのファンである私の小さな夢です。
次女の就職祝いの席で初めて家族に話しました。すると、顔色を変えた妻が「50㏄のスクーターにも乗っていないあなたが、しかも五十歳を超えていきなり大型バイクだなんて危険すぎる」と大反対です。説得を試みましたが双方相容れず。お祝いの席の空気を悪くしてしまいました。
善か?悪か?
免許取得は私にとって善いことですが、妻にとっては悪いこと。夢が断たれることは私にとって悪ですが、妻としては安心を得ることができる善。私の善が誰かの悪になり、私の悪が誰かの善になる。また、バイクで事故を起こし大怪我をしたならば、「妻の忠告を聞いておけば」と、私の善だったはずの夢は、悪い結果をもたらすものとなってしまうのでしょう。私がその時々で判断する善悪は、実はとても不確かなものなのです。
お互いに不確かな善悪の間で摩擦が起こる。そこに憎しみや怒りが生まれます。日常のもめごとから、時に起こる大きな争いの最初の発火点です。
私がその時々で判断する善悪は実は不確かなものであり、誰かを傷つけてしまいかねない。自分中心の不確かな善悪を決して手放すことなどできない私だからこそ、すでに届いている確かな教えに照らされ続けなければならないのです。
(機関紙「ともしび」令和6年12月号より)
仏教あれこれ
「風通し」の巻
日本では昔、夏になるとふすまを外し、すだれをかける風習がありました。暑い日差しを遮り、室内に風を通すことで涼を感じるのです。打ち水をして風鈴の音でも聞こえると、暑さが和らいだのでしょう。
先日、すだれを特集した番組がありました。専門家が、昔の家屋は夏にすだれをかけることを想定して、家中の風通しがよくなるよう設計されていたと解説されていました。
室内に風を通すことで、湿気を取り、悪霊を追い払っていたそうです。悪霊とは、現代でいう細菌やウイルスのことかもしれません。そして、そこで身を横たえると身心の疲れが取れ、健康を保てたというのです。
それだけでなく、つまらないことで堂々めぐりしてよどんでいるわたしたちの心が、吹き抜ける風の中で、明らかにされる場だったのかもしれません。
夏を迎え、今年は室内に風を通して、涼を感じてみようとホームセンターに行き、すだれを購入しました。さっそく居間にかけ、窓を開けてみると恐ろしいほどの熱風に襲われ、めまいが生じました。
しばらくして日が傾いたので、窓を開け身体を横たえました。すると、突然の雷音とゲリラ豪雨に見舞われるという散々な結末を迎えたのです。
寒さを感じる季節になり、ファンヒーターを出そうと物置に入りますと、片付けたすだれが目に入りました。来年はすだれをかけても窓を開けず、エアコンで風の流れを感じようかと思うのでした。
(機関紙「ともしび」令和6年12月号より)