今月のともしび
常照我
イラスト 岡山県真光寺住職 守城尚子さん
(略歴)成安造形大学メディアデザイン領域CG・アニメーションコース卒業。株式会社ピーエーワークスに約三年勤務。退職後に岡山県真光寺住職を継職。現在は、放課後児童クラブ支援員、イラストレーターを兼業。
罠にかかったツルを助けた男のもとに、その晩、女が現れた。お礼をするのでくれぐれも襖を開けないように、といって女が入った部屋の奥で物音が聞こえる。
ふと静まりかえったとき、男が思わず言いつけを破り中を覗いてみると、隣の部屋の家財一式が無くなっていた。
「やられた!あいつはツルじゃなくてサギだったのか!」
鶴の恩返しならぬ、恩返しサギという小話。
しかし自身を振り返れば、私も仏を裏切り続けてきたのではあるまいか。願いに背を向け自分中心に生きている私こそ恩知らずである。その私の性根を仏は見抜きつつも、「仏に成るべき汝である」と信じはたらき続けてくださっている。
「報恩」はそんな自身にかけられた思いに気づくことである。
(機関紙「ともしび」令和6年11月号 「常照我」より)
親鸞聖人のことば
安楽浄土にいたるひと
五濁悪世にかえりては
釈迦牟尼仏のごとくにて
利益衆生はきわもなし
『浄土和讃』より(『佛光寺聖典』五八三頁)
【意訳】
阿弥陀仏のはたらきにより浄土で仏となられた方は、菩薩としてこの迷いの世界に還られて釈尊のように人々をみ教えに導くのです。
若い頃から長年教えをいただいてきた、大切な先生が亡くなりました。新幹線を乗り継ぎ、仲間とお通夜に向かいます。
お通夜へと
昨年まで毎年各地のお寺で、先生とともに布教大会に参加した時の思い出を、山道を行く車の中で語りあいました。
「歩くのもしんどそうで、最近はだいぶ弱っておられたなあ」「それなのに毎年遠くまで、休まずにおいでいただいたよ」
先生のお寺に着き本堂に入ると、先生は棺の中に静かに横たわっておられます。
「先生、長い間お世話になりました」いつの間にか中高年になった仲間たちが、棺の前で代わるがわるお別れを告げます。
お通夜を前に「通夜葬儀のしおり」が配られました。何年も前に、先生がご自分で作っておかれたものだそうです。
会葬御礼
やがてお通夜が始まると「しおり」に載せてある「正信偈六首引」を列席者が唱和する声が夕暮れの空気に響き渡ります。
勤行が終わり「しおり」をめくっていると最後に「会葬御礼」という一文が載っています。
「私のことを、時々思い出してくださることもありがたいことですが、それよりもみなさまが私の死を通していのちの真実に目覚めてくださることが、私のなによりのよろこびです」とそこには書かれていました。
亡くなった先生ご自身からの「会葬御礼」のことば……。
先生の笑顔が浮かんできます。ああ、お別れではないんだ。わたしたちは先生がいのちをかけて伝えてくださったお念仏の教えの中で生きていく。
先生の深い願いは、すでに私たちの中に届いていたのです。
(機関紙「ともしび」令和6年11月号より)
仏教あれこれ
「真宗では」の巻
昨年車を買い換えた時の話。納車まであと数カ月という頃、お参り先で車の話になり、どうやらその家のご主人も、私と同じ時期に同じ車に買い換える予定だということがわかりました。私たちは意気投合し、車のグレードや車体の色、オプションは何をつけたかなど、車の話題でたいそう盛り上がりました。
待望の納車後、再びその方の家にお参りに行った際、当然のように車の話に花が咲きました。
しばらく歓談していると、ご主人が「私は神社に交通安全のご祈祷に行ったが、住職は行かないのか」と尋ねられました。私はとっさに「真宗ではそういった祈祷はしません。祈祷しても事故は起こりますよ」と言ってしまいました。その直後、ご主人の顔からスッと笑顔が消えるのが見えて「しまった」と思いました。
浄土真宗では阿弥陀仏のすくいにのみおまかせするので、祈祷や占いなどを頼りとしません。しかし、だからといって「真宗では」という言葉を振りかざして、考え方の異なる意見や行為を頭ごなしに否定すれば、必ず衝突が起こります。この時も、すでにご祈祷に行かれた方に対して、真っ向から否定するような言葉を言うべきではありませんでした。
ご主人の顔色を察した私は「運転に慣れた頃に交通事故は起こるものです。初心を忘れないようにという戒めが、ご祈祷本来の意味なのではないでしょうか」という説明を継ぎ足しました。
私こそ、僧侶として学び始めた頃の初心を忘れて、横着な物言いをしていたと知らされた出来事でした。
(機関紙「ともしび」令和6年11月号より)