真宗佛光寺派 本山佛光寺

家族の絆を考える

照らされて見えてくる

「10万の兵に匹敵」

 「羊頭狗肉」という言葉があります。羊の頭を看板に出して狗(いぬ)の肉を売るという意味で、まさに、昨今の「食品偽装」そのものですが、これは中国・宋の時代の「無門関」という禅書にのっているそうで、いかに昔から人間は人をだますことに知恵をしぼってきたことかと思わされます。

文明の発達に伴い、社会化・都市化が進むと、「自然はだませないが他人は容易にだませる」とばかりに、さまざまな犯罪や社会秩序の混乱が起こるようになりました。もちろん、法律や武力などによって混乱をおさめようともしてきましたが、同時に、反社会的行為の抑止力となる精神的支柱として、哲学や道徳、世界宗教なども誕生していったのです。

中国皇帝の言葉に「一寺建立は10万の兵に匹敵する」という言葉がありますが、いわばそれは人間の中の「内なる自然」の要求にこたえるものであったのかもしれません。

 

内観の思想

 宗教の中でも仏教は、「不殺生戒」などの戒律を説くことで、逆に、他の命を奪わないと生きていけない人間の存在に気づかしていきます。いわば自己を見つめることをとおして、とうてい助かるはずのない自分が、見捨てられないで救われていくことに気づくのです。言いかえれば常に自分自身を問題とする「内観」の思想にもとづく「内道」の教えであり、他者を問題とする「外道」の教えとは一線を画すものなのです。

 

自身を正義とする

 自分自身を見つめるといっても、なかなか難しいものです。

 ある団体の会計を担当していた時のことです。メンバーの一人の予算の使い方がどうにも納得できません。そのメンバーが担当している任務の肝心の部分には使用せず、個人的に利用する製品の方に重点をおいて予算を使用しているように思えてしまったのです。自分なら決してそういう予算の使い方はしないだろうと思うと、さて、それから心が落ち着きません。そうかと言って直接本人にそれを指摘するのもためらわれ、何日間ものあいだ悶悶とし、だんだん腹が立ってくるばかりです。

「あいつは全体のことより自分の得することを第一に考えているのではないか。」とか「一人前の仕事もしないで、そんなことばかりに頭がはたらく」とか、だんだんとそのメンバーの人間性まで否定して考えてしまっていました。

後日、直接本人と話す機会があり、それとなく言い分を聞くと、必ずしもこちらが思っていたようなことばかりではないこともわかったのですが、それまでの自分の心の動きは、正に自分を正義において相手を断罪し、そのことで「怒り」の気持ちを燃やすということに陥っていたのでした。

 自分が関係していなければ、たとえば隣の町内の予算がどう使われていようと全然気にしていないわけですし、本当に正義の立場に立っているつもりなら、国家予算の使われ方などにも、もっと「怒り」をもって注目してもいいようなものですが、そうではなく、狭い範囲で他人の非ばかりが拡大して見えてしまうというのも、実は相手が得をすることによって、自分自身が損をしているのではないかという、「損得勘定」からきていたのかもしれません。このように日常生活においても、常に「怒り」や「ねたみ」の心が沸き起こってくるのが現状です。

 

悪人正機

『歎異抄』第三章には「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」(善人でさえ救われるのだから、ましてや悪人はいうまでもない)という有名な「悪人正機」の文言があります。

ここにいわれる「悪人」と「善人」は世間の常識とは異なり、「善人」とは自分は正しいと思い込んでいる者であり、「悪人」は自らの罪を自覚して苦悩する者のことです。そしてその「悪人」こそが救いの対象だというのが「悪人正機」なのです。

極端な話ですが、たとえば殺人などの重大犯罪を起こした人間であっても、自らの罪意識に苦しんだ末、心から罪を懺悔する気持ちが起こったとしたら、法律的にはともかく、宗教的には救われる可能性があることになるのです。

逆に、表面上は何の問題も起こしていなくても、自らを省みることもなく、ただただ自分一人が正しいという姿勢を崩さない人間の方が、宗教的な救いにはあずかれないということになります。

冒頭の、仏教とは「内観」の教えであるということと結びついてくるわけです。

 

照らされて見えてくる

 罪の自覚といっても、それは自分の努力でできるものではありません。なぜなら自己本位の心そのものが人間といっても過言ではないからです。それには仏さまの智慧の光に照らされることが必要なのです。

念仏詩人の榎本栄一さんの

照らされて

自分の煩悩がみえはじめたら

少し浄土へ

近づいている証拠です

という詩があります。

 お念仏を称える日々の生活の中でこそ、わたしたちが本当に救われていく道があるのです。

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