家族の絆を考える
老いを楽しむ
お年寄りの智恵
中学生になるお孫さんが、理科の宿題で「カビの発生」について研究をしていました。
「なぜ、カビは発生するのか」と、つきたての餅を横にレポートを書いていると、おばあちゃんが横に来て一言…。
「はやく、喰わねえからだよ…」
なるほど、食べ物を放置しているとカビが発生します。ならば、カビの生えぬ間に食べる。
まさか、そんな答えをレポートに書くわけにはいきませんが、私はこのおばあちゃんの言葉こそ、生活の中から湧き出た「生きた言葉」と思うのです。
ほうきを逆さに構えて追いかけてきた祖母
私が小学五年生のとき、言うことを聞いてくれない祖母に対して「おばあちゃんなんか、死んでしまえ!」と言ったことがありました。
その瞬間、温厚な祖母の顔はゆがみ、ほうきを逆さに構えて追いかけてきたのです。
それは、いつもはやさしい祖母が、今までに見せたことのない悲しい姿でした。すでにその祖母も亡くなり、昨年二十三回忌を勤めさせていただきましたが、今でもその光景は、苦い思いと共に鮮明に蘇ってきます。
祖母に申し訳ないことをしたという思いは変わりませんが、一方、よくぞ、ほうきを逆さに構えて追いかけてきてくれたと思っています。
もし、あの時、孫から言われたその一言に泣き崩れていたとしたら、私の中にも、暗く深い傷となって残ったと思います。
「『死ね』などという言葉は、人に向かって言う言葉ではない」と身をもって教えてくれた祖母。
亡くなっても、その姿は今もしっかりと私の中に生き続けています。
見ているのは、防犯カメラではなく仏さま
私が子どものころ、「仏さまが見ているよ」という言葉は、まだあちこちで聞くことが出来ました。
その一言で「悪いことをしてはいけない」と子ども心に理解していたように思いますが、現在ではあまり聞くこともなくなりました。
ある百貨店での出来事です。
ひとりの母親が、店の中を走りまわるわが子に「悪いことしたらあかんで、カメラに映ってるで!」と叱っている場面に遭遇しました。
それはあたかも「映像」という証拠が残るから、悪いことをしてはいけないと言っているようでした。
万引きでつかまったわが子を引き取りにきた親は「バカだね、捕まって!」と子どもをなじり、店には「お金を払えばいいんでしょ」と開きなおる。
目まぐるしく移り変わる時代の中で、感覚が麻痺し、何が「問題」なのか分からなくなってきているのです。
先頃亡くなった作詞家の阿久悠氏は、今日の世相を「小さな異変が誕生した『時』がある。その『時』を見逃したために怪物化した」と語り、その「時」とは「少女買春を援助交際と言い換え、売春と交際を同義語としてしまった時」「勤勉、真面目を野暮、ダサイと笑いものにした時」などを挙げられていました。
怪物化した現代は「ジコチュー(自己中心的)」という言葉を生み出し、人間の相を浮き彫りにしました。
誰も見ていないから…自分さえよければ…。
仏さまの眼には、防犯カメラのような証拠は残りませんが、お念仏をより処とするところに、証拠を必要とせぬほどに、ごまかしようのない「私」の実体が映し出されるのです。
老いて深まる
「最近、もの忘れがひどくなりましてね。先日も、眼鏡を探していて、ふと気がつくと自分の顔に掛けていた。隣の部屋に物を取りに行ったのに、何を取りに来たのか忘れる。人の顔は分かるのに名前が出てきません…。ほんと、年は取りたくないですよねぇ…」
ある程度の年齢を重ねれば、誰しも経験することではないでしょうか。
「老いる」ということは、若い頃には出来たことが出来なくなる。動作が鈍くなる、記憶力が低下するということですが、マイナス的な要素だけではありません。
若い頃には、その浅い経験から気づかなかったことに気づく、他人の痛みが分かるということがあります。
「いつの間に、こんなにしわが増えたんだろう…」
毎朝見ている鏡に向かい、ふとこんなセリフを呟く。
年は取りたくない、いつまでも健康でいたい…という思いは、万人の願いなのかも知れません。
元大谷大学教授の金子大榮師は常々「老醜、老耄といわれるようになりたくない、老境といわるような晩年でありたい」と話されていたといいます。
老いたら「老い」を楽しみたい。
四季に秋がめぐりくるように、「老い」は人生の深まりを見せるときでもありましょう。
「長生きしたご褒美に、最近は物忘れがひどうなりました、おまけに世の中の雑音を聞かなくていいように耳まで遠くならせてもらいました」
長年、聴聞を重ねられたおばあちゃんの言葉です。
現実は現実として変わりようがありませんが、視点が変わると壁は扉に変わります。