真宗佛光寺派 本山佛光寺

家族の絆を考える

親を殴りたい

おかあさんは/どこでもふわふわ

ほっぺは ぷにょぷにょ/ふくらはぎは ぽよぽよ

ふとももは ぼよん/うでは もちもち

おなかは 小人さんが/トランポリンをしたら

とおくへとんでいくくらい/はずんでいる

おかあさんは/とってもやわらかい/ぼくがさわったら

あたたかい 気持ちいい/ベッドになってくれる

(『おかあさん』)

 この国の至るところで、いま家族の絆がもろく、こわれやすくなっています。それも、ふだんは見えないかたちで。

 青森県八戸市で、平成二十年四月一日に、小学四年の男子を絞殺した容疑で母親が逮捕された事件は、子殺しの続発する世相の中でも人々を驚かし、事件への痛ましさとともに、「なぜなんだろう」の疑問を抱かせました。

 

こころの闇

 それは前年の10月、仙台市の「土井晩翠顕彰会」が主催した東北地方の小学生対象の詩のコンクールで、この男の子の前記の詩が佳作に選ばれていたことに起因します。

 母への慕情と、表現から充分なスキンシップをしていたであろう母の愛が、びんびんと伝わってくる詩であるのに、なぜ母はこの子を殺さねばならなかったのか、という疑問です。

 ここで、私たち皆が無意識にせよ抱いている「こころの深い闇」を思わざるをえません。

 親鸞聖人は、この闇を称して「さるべき業縁のもよほさば、いかなるふるまひもすべし」とおっしゃいました。

 心の闇が深いところで裂けて表面化するとき、私たちはどんなことでもしてしまう、そんな人間としての痛ましさを知りぬいた聖人のおことばです。

 子殺しに対して親殺しも、残念ながら後を断ちません。

 事件にまで到らなくとも親や大人に対する不満はくすぶっています。平成十二年に総務庁が初めて中高生を対象に行った調査では、「中高生の三割が親を殴りたい」との報告が出ていました。

 

踏みとどまる

 しかし親を殴りたい、という心の動きを一歩手前で踏みとどまらせる力が、子らにはたらいていることも重要な鍵になるでしょう。この力もまた、ふだんは見えないかたちで人の心にひそんでいるものなのです。

 ここで私は、自分の高校時代の恩師が、卒業アルバムに書いて下さつた『贈る言葉』を思います。それは「自分を守るのと捨てるのとのあいだに生きることのむずかしさを、いつも思います」という文章でした。

 いつも少し自信なさそうに、授業する先生でしたが それは「これで生徒に伝わるだろうか」と、授業内容を自問自答しておられる姿に映りました。

 そういう先生は、いつもぎりぎり迷った末、自分を守るより捨てる方を多く選び取ったに違いなく、そう感じたとき、私はその先生をとても好きになりました。

 つまり、踏みとどまる、大変くやしいけれど、ぐっと呑み込み一たん自分を捨てる、それは勇気にも等しいのではないでしょうか。

 勇気とは、かっこよく外側に見せるものではありません。親鸞聖人はそういう勇気を、「勇猛のふるまい、みな虚仮たるべきこと」とおっしゃっています。

 親を殴りたい、そこを踏みとどまって親の気持ちを考えてあげる、一個の人間として欠点多き者として見てあげる、そのことによってはじめて子は親と同一線上で向き合えるのです。

 

明るい「けんか」

 けれどもどうしても踏みとどまれず、我慢できない場合、言ってしまうか行動に出るか、最終的に喧嘩するしかないかもしれません。要は、やり方です。

 どこでどなたからお聞きしたのか忘れましたが、鮮烈におぼえている次のような小学男子の詩がありました。

 太平洋と/日本海と/オホーツク海と/東シナ海の/まんなかの/日本の/古河第一小学校の運動場で/ぼくはいま/けんかしている

 (『けんか』)

 思わず、うれしくなります。

 この少年、どこまでも開かれた世界で正々堂々とけんかしています。何といさぎよい、明るいけんかでしょう。この少年の育った真っ直ぐな家庭環境を想像します。

このような精神的土壌には、いじめもなく、ひきこもりもないことでしょう。いじめは、社会と家庭への不満から生じていると、やはり思われます。とりわけ家庭から。

 たとえ裕福で生活には困らなくても、その家庭に満たされないものがあるから、外へと攻撃が向かうのだと思います。

 言い換えれば、きちんと喧嘩の出来る家族であることが、むしろ望ましいのではないでしょうか。

 

御同朋・御同行

 人は自分の都合の悪い相手、嫌いな相手を排除しようとします。誰の心にも働く自然感情ですが、それは、みずからが生きる世界を狭くし閉鎖的なものにします。

 真宗のみ教えは、都合の悪い嫌いな人やできごとをも、最終的に拝んでいくみ教えです。

 二十世紀の末ごろから世界中で、「共生」ということばが交わされはじめました。戦争したり醜い争いをしていたのでは、人間同士がもう生きておれなくなり、第一、地球が持たない、という認識がその背景にありました。共に生きなければ、と。

 親を殴ったり、子を殺したりしている場合じゃない、もっと切実で深刻な危機が、地球的規模ではじまっている、ということです。

 信じ合える者も、そむきそしる者も、一度きりの人生の旅をぶつかりあいつつも共に行く同じ仲間だと言い切った、親鸞聖人の「御同朋・御同行」というおことばがあります。

 お互いの違いを相手の良さと認めあえる社会、そんな社会を実現したいものです。

 とりわけ家族こそ、その御同朋・御同行なのですから。

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