家族の絆を考える
お内仏のある生活
「孫がね、遊びにくると仏さんのところへ行ってね、チンチーンとやるんですよ、おもちゃじゃないよって、叱るんですけどね…」
いつものように月参りに出かけた先のおばあちゃん、叱るという割には嬉しそうです。
古くから「子は親の言うことは聞かないが、親のすることの真似をする」と言われてきました。
なるほど、おばあちゃんの真似をしてこのお孫さんも、お内仏にお参りをするのでしょう。
ところが先日、そのおばあちゃんのお宅へお参りすると、いつもとは違う様相です。
「孫がね、台所で作りかけていた惣菜をつまみ食いしたんです。で、私が叱ると、ばあちゃんもやってたやんかと言われましてね…誰も見ていないと思ってつまみ食いしたのを、孫はちゃんと見てたんですね…お恥ずかしい限りです」
人間、誰も見ていないと本性が出るといわれますが、誰かに見られていたとなると、なかなか恥ずかしいものです。
自分中心の生活
古くから「お内仏は家庭の中心」と言われてきました。
ところが「仏さんよりも、生き仏さん(人間)の方が大事ですからなぁ」という言葉があるように、仏さまを中心にとは名ばかりで、人間中心、自分中心の生活が現状ではないでしょうか。
灰谷健次郎さんの編著『一年一組』に、うえがきたかとし君の「すきなこども」と題した作文が紹介されています。
おかあさんは
かしこいこと
げんきなこと
はなしをよくきくこと
うそつきじゃないこと
ふざけないこと
やくそくをまもるこが
だいすきだって
ぼくはむりです
親なら誰しも、我が子に対して大いなる期待をかけることでしょう。ところが、その期待は親の「願い」といえば聞こえはいいのですが、都合のいい「思い」を一方的に押しつけていることになってはいないでしょうか。
灰谷さんは「親が、自分は絶対に間違いがないと思ったとき、子どもにとって最大の暴力になる」と警鐘します。
「親の心、子知らず」とはよく聞く言葉ですが、「子の心、親知らず」に気づかないのです。
みな違う
たとえば、Aという場所に集合するとしましょう。私たちはその集合する場所までの距離、かかる時間を計算して出かけます。
歩いて行くか、自転車で行くか、あるいは電車かタクシーか…それぞれ条件に応じて手段は変わってきます。
同じ場所に集合はするのですが、その目的地への到着手段、道行きはみな違います。
それは、出発する場所がそれぞれに違うからです。
私たちの歩みも、おかれている環境、境遇、立場によって、人それぞれに違います。
少し前のことですが「三丁目の夕日」という映画が公開されました。
舞台は昭和三十三年、当然のことながら携帯電話もパソコンもありません。また、現代のように、モノの満ち溢れた時代でもありません。
決して豊かな時代とは言えないのに、そこに描かれている
人々の表情は、みな生き生きとしています。
その映画のラストシーンは両親に子どもがひとりという、ごく平凡な一家が堤防に立ち、東京タワーの横に沈みゆく夕日を見ているというものでした。
「きれいだな…」
「きれいね…」
「明日の夕日もきれいかなあ」
「明日も明後日も、夕日はずーっときれいだよ」
父親、母親、子ども…みな立場は違うのに同じ方向を見て、同じように感じ、共感共鳴する。
私たちはそこに、何ものにも代え難い喜びを感じるのではないでしょうか。
仏さま中心の生活
人が生きていく上で、向かい合うことは非常に大切なことですが、お内仏にお参りするということは、向かい合うのではなくて、同じ方向に向かって、南無阿弥陀仏と念仏申すことです。
それぞれに歩み来た道、また歩む道が違おうとも、現在ただ今の私の生き方が、ほんとうに私が私でよかったと言える生き方なのか…お内仏を中心とするところに、自分中心という在り方がいかに傲慢で、私という存在の背景を見失っているかということを映し出すのです。
お内仏を家庭の中心といただき、南無阿弥陀仏と念仏申すところに、自身の姿に頭が下がり、人間らしい生活が始まります。