真宗佛光寺派 本山佛光寺

お話

大遠忌ってなに

大遠忌

 平成二十三年には親鸞聖人の七百五十回忌をおつとめしました。五十年ごとに巡ってくる聖人のこの年忌法要を特に大遠忌と言います。

私たちは身内の者が亡くなれば法事をつとめます。一年目が一周忌、二年目が三回忌、六年目が七回忌、このようにして、十三、十七、二十三、二十七、三十三、そして五十回忌までつとめます。

 普通はここで終わりですが、さらにこの後五十年ごとに百回忌、百五十回忌とつとめていく場合があります。世に何か大きな功績を残された方や子々孫々忘れてはならない人の場合です。

 真宗門徒において、最も忘れてはならない人は宗祖親鸞聖人です。

 私たちが人生の苦悩から救われる道がお念仏ただひとつであることを、聖人は身を以て明らかにしてくださったのです。

 

ご開山

 宗祖親鸞聖人と聞くと、何か遠い雲の上の人のように思ってしまいますが、実際の聖人はそうではありませんでした。むしろ私たちにとって大変近しい人でした。

 世に「大師は弘法に奪われ、開山は親鸞に奪わる」との言葉があります。

 何宗であれ、一宗をお開きになった宗祖は、皆「ご開山」なのですが、真宗門徒ほどその宗祖を「ご開山、ご開山」と親しみを込めて呼んできた宗旨はないのです。

聖人自身も、念仏の道を歩む者は皆同じ仲間、同じ友人だと考えておられました。だから、たとえ相手が誰であろうとも、常に私とあなたは「御同行」「御同朋」なのだとおっしゃったのです。

 阿弥陀如来の下においては皆平等、これが聖人の徹底したお考えでした。ですから、「私は親鸞さまのお弟子だ」と言う人に対しては、「私はお弟子など一人も持っていない。あなたが念仏を喜ぶようになったのはひとえに阿弥陀如来のお力であって、私が何かをしたからではありません」ときっぱりとおっしゃったのです。

 

阿弥陀さま

 では、阿弥陀如来とはどのようなお方でしょうか。

 阿弥陀如来は、私たちがどれほど忘れていようと、背いていようと、私のことを決して忘れることなく、寝ても覚めてもまるで親がたった一人のわが子を思い続けるように、常に思っていて下さる方なのです。

 このように言えば、阿弥陀如来とは人間のような生命体かと思われるかもしれませんが、そうではありません。そのはたらきを擬人化し、またそのはたらきの偉大さに敬意を込めて「阿弥陀さま」と呼ぶのです。

 この阿弥陀如来のはたらきに、最初に気づかれた方がお釈迦さまでした。もちろん、阿弥陀のはたらきは、それこそ人類が誕生するずっと以前から存在していました。ですから、お釈迦さま以前にも、そのはたらきに気づいた人はいたかもしれません。しかし、そのはたらきを他の人に教え伝えられたのは、お釈迦さまが最初だったのです。

 お釈迦さまが阿弥陀のはたらきをお説き下さったお蔭で、その教えを聞いて喜んだ人が、お念仏を申すようになり、また次の人にお念仏を伝えて行ったのです。こうして阿弥陀の教えは、インドから中国、日本へと伝わって行きました。

 

弥陀の大悲

 聖人は、九歳で得度(仏門に入門)し、それから二十年間を比叡山で修行されました。

 人生の苦悩、不安、悲しさ、空しさを人一倍強く感じられた聖人は、絶対安心の境地を求めて修行されたのです。ある時は命がけの厳しい修行をし、ある時は必死で念仏を唱え続けられました。しかし、どれほど自力の限りを尽くしても、絶対安心の境地は得られなかったのです。

 自力に破れた聖人は、もはや自分の力ではどうすることもできなくなり、ついに比叡山を下りて、すがる思いで法然上人の門を叩かれたのです。

 法然上人は特別な事をおっしゃったわけではありません。「ただ念仏して弥陀に助けられまいらすべし」とだけおっしゃったのです。

 機が熟していたのでしょう。そのひと言が、聖人の胸に稲妻のように響いたのです。阿弥陀如来の大悲が聖人の胸に至り届いた瞬間でした。このようにして、聖人は他力の信心をいただかれたのです。

 

恩徳讃

 聖人は生涯に五百余首近い和讃をお作りになりました。その中で私たちが最もよく知っている和讃が恩徳讃です。

 如来大悲の恩徳は

 身を粉にしても報ずべし

 師主知識の恩徳も

 骨を砕きても謝すべし

 私が阿弥陀如来から受けたご恩というものは、私の身を粉々になるまで報じても、まだ足りないほど大きなものである。同時に、その阿弥陀のはたらきを、私に教えて下さった諸師先達や善知識に対するご恩も、骨を砕いても報謝しきれないほど大きなものである、と聖人は詠われています。

 聖人が如来の大悲を感得されたのは、二十九歳の時でした。その時の喜びがいかに大きなものであったか容易に想像がつきます。しかし、人間の感情には、その場限りのものや、錯覚ということもあります。

 その意味で、この和讃が聖人の最晩年(八十五歳以降)に、しかも、正像末和讃の一番最後を結ぶ和讃として作られたということは大変大きな意味があるのです。

 つまり聖人は、阿弥陀如来の大悲が真実まことであり、それがいかに大きな救いであるかをご自分の一生涯の身を通して明らかにしてくださったのです。

 

真宗門徒

 将来を嘱望されていたある青年は、交通事故によって完全に手足の自由を奪われました。何度も死を考えた彼は、さいわい、家が浄土真宗であったことから、念仏の教えに出遇い、「自分はまだ生かされているじゃないか、目も見えるじゃないか、口もものが言えるじゃないか、耳も聞こえるじゃないか」と方向が百八十度転換したといいます。そして、「私にとってお念仏というのはまさしく勇気でした。勇気そのものでした」とおっしゃったのです。

 寝たきりだったあるお婆さんは、訪問看護にやって来たヘルパーさんに、「一日一日を喜ばしてもらおうよ、それができなかったら一時間一時間を喜ばしてもらおうよ、それができなかったら一分一分を喜ばしてもらおうよ、それができなかったら吐く息吸う息を喜ばしてもらおうよ」とつぶやくようにおっしゃったのです。

 熱心な聞法者であったもう一人のお婆さんは、最後はガンが全身に転移し、八十二歳で亡くなられたのですが、お見舞いに来られた法友に、「そりゃああなた、身は辛うございますが、長い間お聞かせに預かって、心は喜びで一杯でございます。お導きどうも有難うございました」とおっしゃったのです。

 このように、数知れぬ人たちが、如来のはたらき、つまりお念仏に出遇ったことにより、それまで当たり前と思っていたことが、実はどれほど有り難く、素晴らしいことであるかを知らされ、一日一日を、いや、一息一息を「おかげさまです」「ありがとうございます」と静かな深い喜びの中に日暮らしされていったのです。

 私たち真宗門徒が、苦難や災厄はもちろんのこと、老・病・死さえもそのままいただける世界を生きてこられたのは、まったくこのお念仏のお蔭なのです。

 どうかこの素晴らしいお念仏を、聖人の七百五十回大遠忌をご縁に、ぜひ私たちの子どもや孫たちに相続していきたいものです。

このホームページは「本山佛光寺」が運営しています。ホームページに掲載されている画像の転用については一切禁止いたします。また文章の転載についてはご連絡をお願いします。

ページの先頭へ