真宗佛光寺派 本山佛光寺

了源上人絵詞

了源上人について

親鸞聖人が越後への流罪をご赦免になり、なつかしい都へ帰られた時、山科の地にささやかな庵を建てられ、「興隆正法寺」と名づけられたのが佛光寺のはじまりです。

その後、このお寺は聖人の高弟の真佛上人より、源海・了海・誓海・明光の各上人へと法脈によって受け継がれました。


内容

上人は幼い頃より、優れた才能をお持ちで一般の学問と同時に、浄土三部経や高僧方の著書をご勉学になり、仏教の研鑚につとめられました。

上人は十四歳で得度され、二十二歳の春には第七代の法灯をお継ぎになりました。

時は社会的には南北朝の騒乱の兆しがあり、親鸞聖人のご門弟の中にもいろいろな考え方をする人々が出てこられました。

こうした中にあって、了源上人は宗祖親鸞聖人の正統の法脈を継ぐものとしての自覚をもち、お念仏の教えを伝えるために、各地をご巡化されました。

上人はまた、名帳・絵系図・光明本尊を用いる布教をおしすすめられました。

これは聖人の時代の交名帳(きょうみょちょう)や法脈相続の思想を発展させたもので、阿弥陀仏のご本願が、釈尊、三国の祖師、親鸞聖人を経て、我が身にどのように伝わってきたかを明らかに示したものであります。

こうした布教によって興正寺(現佛光寺)はますます栄えていきました。その反面、上人の名声をねたむ者達が悪巧みをして上人を落としいれようとしました。

それは、寺から由緒正しき仏像や宝物を奪い取り、何の由緒もない寺だと言いふらせば、人々の帰依も薄らぐであろうという計略でありました。

ある夜、密命を帯びた賊が本堂に忍び込んでご本尊や宝物を盗み出しました。

しかし、尊い仏像を盗み出したという自責の念が心に生じ、不思議にも手足が一歩も歩けないように思えました。

賊は恐ろしくなって、ご本尊を藪の中へ投げ棄て、宝物も道の傍らに投げ棄てて、逃げ去っていきました。

時の天子、後醍醐天皇が、明け方に近い頃、南方より金色の光が差し込んでくるのに気がつかれ、目を覚まされました。それは夢でありましたが、夢と思えないほどの尊い光でありましたが、不思議に思われ、使者を遣わされ調べさせました。

使者は遂に、ある竹やぶの中に一体の仏像を見出し、宮中に持ち帰りました。

天皇は大層喜ばれ、丁重に拝まれました。

その後、都の寺へこの仏像のことが告げられ、知らせを聞かれた上人は、座光を持って参内されました。

仏像を座光に移されると、ぴたっと納まりましたので、天皇も大層お喜びになり再び仏像をお渡しになり、寺号を「阿弥陀佛光寺」略して「佛光寺」と改めさせられ、勅願まで賜りました。

また、それまでの山科の地は親鸞聖人のご旧跡ではありましたが、都からは山越えをせねばならず、天皇は勅して佛光寺を東山汁谷の地に移して勅願所とし、一宗棟梁の綸旨を下されました。

汁谷の地は今の方広寺大仏殿のあるところで、ここにお堂が建立され、聞法の道場として布教活動の中心となりました。

上人三十六歳の時、近江粟津にお寺を建てられました。

ある夜、上人の夢に白髪の老人が現れて「阿弥陀様は十劫の昔四十八の願を建て、他力のみ教えをお開きになりました。あなたはどうかこのみ教えを来世の苦しみ多き人々に弘めてください」と言われました。

上人が「あなたのお住まいはどこですか?」と問われると、「私の住むところは石山です。」と応えられました。

上人は石山の観音様が、末世の衆生が救われる道は弥陀の本願以外にないという証拠をお示しになったと大層お喜びになりました。

元弘三年、隠岐の島に流されておられた後醍醐天皇は都に帰られ、建武の中興の大業が成就しました。

戦乱が治まり平和が戻ったので、上人は機内や近江・伊勢の近国のみでなく、遠三尾州と呼ばれる東海地方まで教化の旅に出られ、三十七歳の頃から伊賀の国に留まられて、布教に専念されました。

その頃、鈴鹿の天嶮によって通行の旅人を悩ます山賊がいました。中でも伊賀の国山田の庄の八郎を頭目とする一味はもっとも凶悪でした。

念仏門の繁栄を妬み聖道門の衰微をなげく一派は、遂に金銭を送って上人を害せんことを頼んだのであります。

このような恐ろしい計略が、建武二年の十二月に企てられていました。

そのような悪だくみも知られず、上人は従者と共に峠にさしかかられました。

後ろから迫った田中の兵衛は白刃をふりかざし襲いかかってきました。
上人は痛手を受けられながらも、雪の中に座って賊に教戒された後、流れる血潮で衣の袖に、
「我が死は宿業である。この者を罪することなかれ、回心の気あり、よく後生を教うべし」
と書かれ、西に向って合掌し、念仏の息絶えられました。

時に建武二年、十二月八日のことでした。

さすがの悪党の兵衛も上人の激しい気迫とご教化を受けて後悔の心が生じ、上人の亡骸を桜の木の下に埋み、後日、衣の袖を持って本山に参り、事の次第を申しのべました。

悲報を聞いた本山は驚き、さっそく息子の源鸞上人が七里峠におもむかれ、遺骸を掘り出し、火葬にされ、墓を建て、「了源寺」と名づけられました。

上人御遷化の土地は、滋賀県甲賀郡信楽町より、三重県阿山郡へ通ずる県境付近にあって、七里峠と呼ばれていましたが、この時、寒中にもかかわらず桜の花がいっせいに咲いたため、現在は「桜峠」と呼ばれています。

今、その地は整備され
「佛光寺第七代了源上人御遷化之地」
と刻まれた石碑が建てられています。(終)


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