お話
変わる時代
変わる時代と心
時代の移り変わりは、何とはげしいのでしょう。めざましいものの一つに携帯電話があります。若者はもちろん、老人にも必需品となってきているようです。携帯電話の普及で公衆電話が街角から消えつつあるからです。先進の機器は、若者に引っ張られ、高齢者にも広がっています。
若者たちはメールや写真のやり取りで一日が始まり、そして暮れるということです。ラブレターなるものは、昔懐かしいものとなってしまうのでしょう。
軽いノリと、楽しければいいという若者、思案をめぐらすことはダサイこととする若者文化。そこには何かしら希薄で、もろい社会が見えかくれするようです。
ある会社の上司は、若い社員と飲ミニケーションをしてカラオケに行くと、上司はこぶしのきいた演歌、若い人はリズム感のあるロックやポップスと、まるでかみ合わないそうです。上司が歌えば若い人はひそかに「ダサイ」と陰口、若者が歌えば上司は「いつ手を叩くんだろう」とおろおろする、そんな光景が思い浮かびます。まことにコミュニケーションとは難しいものだと思います。そんな一こまにも、生きることに神経をすりへらす中高年の姿があります。
時代が変われば、考え方も変わっていきます。ちょっと昔の若者は、「今は苦しくとも十年先に楽になればいい」と、我慢をして仕事をしたものですが、今の若者は「今が楽しくなければ意味がない」といいます。就職の目安は、休暇の日数といわれるくらいです。しかし、いつの時代でも中高年と若年の価値観は、少し違っていたような気がします。
そして、それぞれの価値観の中で、何とかうまくやっている、間に合っていると思って生きています。実は、その立脚のすべては、我がはからい、我執なのです。
しかし、自分のはからいだけでは、どうにも間に合わない苦悩を背負って生きているのが、実はこの私なのです。
変わらぬ苦悩
生きていくということは、実は大変な苦悩なのです。「四苦八苦でさっぱりわやですわ」と関西の人はいいます。いろんな苦悩に見まわれ、対処に追われ、困りはてるさまをいうのでしょう。家庭、子育て、健康の悩み、また経済上、仕事上、人間関係の悩みなど、まあ、次から次とわき出てきて、死ぬまできりがありません。いや、死んでも財産分与の問題が残ります。
四苦八苦とは仏教の言葉です。生・老・病・死という四大苦と、それに愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五蘊盛苦(※注)の四つを加えて、八つの苦があると教えられます。まさに生きていくということは、時代は変わってもさまざまな苦悩にさいなまれるということです。
では、なぜ仏教は「人生は苦なり」と、まず第一番目に説くのでしょうか。
それは私の生涯、苦しみのままで終えてはなりませんということを知らせるために、説かれたわけです。こちらの岸を越えて「彼岸」、彼の岸からの大いなる願いを聞きなさいということです。私の人生、苦悩のままで、空しく終えてはならないのです。必ず、必ず、苦悩を乗り越える道があるから、それを尋ねなさいというのが仏道です。
苦悩を超える人生
そこで苦悩を超える道とは、どのような道なのでしょうか。
苦悩の原因は、実は煩悩であり、我執なのです。仏教はこの煩悩・我執を滅することを理想とした教えですが、そこで親鸞聖人は「転成」ということを教えてくださいます。
如来さまの悲願を聞き、お念仏を申せば、苦悩が転じられる世界が開かれるということです。つまり苦悩は私の人生のわざわいとならないということです。
『教行信証』という聖典の初めに「悪を転じて徳と成す正智」とお示しくださいます。むしろ人生苦が、私にとって徳と成るという世界が開かれてくるのです。
石川県松任市におられるあるおばあさんは、苦悩あればこそ仏様に出遇えると、お念仏を喜んでおられます。魚の行商をしながら、身体に障害のある子どもさんと暮らしておられました。いろんな宗教の人が「あなたの不安を取ってあげる」と勧誘に来られたそうですが、「この不安をあんたにあげたら、私は何を力に生きていったらええやろね。不安が私のいのちやもん」と断られたそうです。
不安あればこそ、苦悩あればこそ、お念仏の教えの場に引きずり出してくださるのです。それは苦悩がなくなることではない。苦悩あればこそ、それを転ずる世界が、お念仏によって開かれてくることなのです。真実なるいのちの願いに出遇えるのです。
今、ここに、変わらぬ、まことなる念仏が生きています。
(※注)愛別離苦―愛する者と別れねばならぬ苦悩、怨憎会苦―憎い者に会わねばならぬ苦悩、求不得苦―欲しいものが得られぬ苦悩、五蘊盛苦―人間としての生存にともなう苦悩。