よくある質問
1. なぜ「焼香」をするのですか?
お香には体臭を消して清らかにし、心身をしずめ、すがすがしくする働きがあります。
また、その薫りは、分けへだてなくすべての人に行きわたる、仏の徳をもあらわしています。
親鸞聖人は浄土和讃の中で、「染香人」(ぜんこうにん)つまり、香が身に染みて芳しい人ということで、お念仏の教えをよろこぶ人に喩(たと)えておられます。
このことから申しましても、「焼香」は決して仏様や、亡くなった方のためにするのではなく、現在の生きている私のためのものなのです。
「焼香する」という行為を通して、この私が法に遇わせていただくのです。
日々のおつとめには線香を使います。香炉の大きさに応じて適当に折り、火をつけてから横にして灰の上に置きます。
本数に決まりはありませんが、真宗では決して線香を立てることはいたしません。
〔焼香作法〕
①ご本尊を仰ぎ見て、軽く頭を下げる。(このとき合掌しない)
②右手の親指、人差し指、中指でお香をつまみ、いただかずに(つまんだお香を額の辺りまで上げず)、直接香炉に投じます。(佛光寺派では二回です)
③合掌礼拝
2. 真宗では「位牌」は本当にいらないのですか?
真宗は位牌を必要としない宗教です。「位牌」とは字の如く位の牌と書き、中国の儒教で用いられてきたものでした。
ところが、今日ではお仏壇の中に位牌があるのが当然のように思われているようです。そういう考えが仏壇=死者をまつる場所という思いを助長させるのでしょう。
歎異抄に「親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏もうしたること、いまだそうらわず……」とあります。
位牌を新調するという行為は父母の孝養、亡くなった方の供養になるという思いの表われであり、私たち人間のごく自然な感情なのかも知れません。
しかし、親鸞聖人は、そういう感情をもつ自己を厳しく見据えられました。分かり易く言えば、罪悪深重の私が父母の孝養などできる身ではなかった、亡くなった方の供養ができると思うのは、生きている者のおごりであるということです。
真宗のご本尊は阿弥陀如来一仏であります。そのご本尊を安置するお内仏は家庭の中心であり、生活の拠りどころです。
位牌を拝むのではなく、亡き人を縁としてこの私がお念仏の教えをいただくことが肝要といえましょう。
なお、真宗では、法名軸もしくは過去帳を用います。詳しくは、手次ぎ寺院のご住職にご相談下さい。
3. 「念珠」のいわれと作法を教えてください。
合掌は、仏を礼拝する仏教徒の基本的な作法であり、念珠はその作法に欠かせない法具として、永い歴史があります。念珠をかけないで礼拝するということは、仏さまを手づかみするに等しい行為だと戒められた先達がおられたほどに、大切なものと言えましょう。
お葬式やお墓参りで焼香のときに念珠の貸し借りを見受けることがありますが、ひとりひとつずつ持ちたいものです。また持ち歩くときは、房を下にして左手に持ち、床にじかに置いたりしてはいけません。
他宗では念仏を称えて念珠を繰り、数を数えたり、こすり合わせて音を出すようですが、真宗では一切そのようなことはいたしません。
〔作法としては〕
①合掌
背筋をまっすぐにのばし、両手をみぞおちのあたりで自然に合わせます。このとき念珠は片手ではなく、両手にかけ一輪念珠は、房が下になるようにかけます。二輪になった念珠の場合は二つの親玉を親指のところではさみ、房は左側に下げます。
②礼拝
ご本尊を仰ぎ、合掌しながら「南無阿弥陀仏」と称え、念珠をかけて合掌したその姿勢で一礼します。
◎念珠を手にすることで仏教徒であることを自覚し、法に出遇うた喜びのもと、より一層の聞法に励みたいものです。
4. 「法名と戒名」はちがうのですか?
真宗の教えに帰依した人に与えられる名前を法名といいます。
戒名というのは、仏教の定めるところの守るべき戒律を授かるというところからきています。
ところが真宗門徒には戒律がありません。それは戒律を守らなくても良いということではなく、戒律があっても守りきれぬ、いずれの行もおよびがたき身の自覚からであります。
その私が第二の名告(なの)りをあげる、その名告りを「法名」というのです。
第一の誕生というのは、文字どおり、この世に生を受けたということですが、第二の誕生というのは、お念仏申し、深きいのちに目覚めさせていただく人生が始まるということです。
法名はすべて「釋○○」で、「釋」の一字は釈迦如来の「釋」をいただき、仏弟子であり、真宗門徒の証しであります。
したがって亡くなってからではなく生前に帰敬式(おかみそり)をお受けすべきものでありましょう。
字数が多いほうがよいとか、死後の準備と考えるのも間違いです。
なお、本山では晨朝(おあさじ)の後、帰敬式が行われていますので、手次ぎ寺院の住職を通してお申し込み下さい。
5. 「除夜の鐘」はなぜつくのですか?
大晦日には、各地の寺院で除夜の鐘がつかれます。
重く、心にしみ入る大音は、撞木(しゅもく)が梵鐘にあたると同時に響きわたるのですが、あの撞木のあたる部分には蓮の華が現わされています。
蓮の華は泥沼に根を下ろし、そこから花を咲かせます。言い換えれば、私たちが生きている娑婆そのものが泥沼なのかも知れません。
仏説無量寿経に正覚大音 響流十方(しょうがくだいおん こうるじっぼう)
(正覚の大音 響き十方に流る)とあります。
泥沼の現実を生きる私に響く除夜の鐘の一音、一音は、まさに泥沼に咲く花。大晦日を迎え今年一年を振り返ってみますに、煩悩に明け、煩悩に暮れてゆく一年ではなかったでしょうか。
テレビを見ましても明るいニュースより、目を覆わずにはおれないような悲しいニュースの方が多かったようにも思います。
鐘の音こそ、仏さまからの「自己に目覚めよ」とのメッセージのようです。
6. 「打敷」はいつどんな時に掛けるのですか?
打敷は荘厳法具のひとつで、金襴などで美しく作られた敷物をいいます。
もともとは菱形や正方形の形をしており、正面から見て三角形に見えるように掛けていたようですが、現在では三角の部分だけを残した略式の形がほとんどのようです。
前卓と上卓に掛けて用いますが、平常は掛けず、祥月命日、年忌法要や中陰、さらにはお正月、春秋彼岸、お盆、報恩講など特別のときに用います。
打敷は、釈尊説法の座をお飾りしたことに由来し、その形が転じて現在の敷物となったようです。
葬儀・中陰法要などには、白地の打敷を用いますが、お正月や報恩講には鮮やかで美しいものを用いるなど、行事によって色・柄を選びたいものです。
この打敷を掛けることによって、平常とは違う特別の行事、また仏事であると認識することができます。
「信は荘厳より生ず」と言われるように、お内仏を正しく荘厳し、お給仕を怠らずに続ける、カタチにとらわれるのでなく、カタチを通して真宗の教えが子々孫々までも受け継がれていくことが肝要と言えましょう。
7. 「お札やお守り」をお内仏の中に入れてはいけないのですか?
先日、ある神社の前を通りましたらたくさんの絵馬が奉納されていました。
その絵馬の一枚一枚には様々な願いごとが託されています。
その内容は家内安全、延命息災、商売繁盛とさまざま。
どこをとっても我欲を満たそうとする人間の限りなき欲望がうごめいています。
そういうあり方の我が身がするどく問い返され、否定されるのが仏道です。
高僧和讃に
仏号むねと修すれども
現世をいのる行者をば
これも雑修となづけてぞ
千中無一ときらわるる
とあります。
外に念仏申すという相をかたちどっていても、その中身が我が願いを満たす手段であるかぎり、それは雑修でありましょう。
自己中心の願いを拝むのではなく、仏さまの願いに耳を傾ける場を「お内仏」というのです。
よって、お内仏の中に、お礼やお守りを入れてはならないことは言うまでもありません。
もし、お内仏の中にお札やお守りがあるようでしたら、手次ぎ寺院の住職にお願いして処分してもらって下さい。
8. お墓を建てたいのですが、「方角や墓相」に善し悪しはあるのですか?
方角や場所に、いわゆる「相」があり、それによって家庭や身の回りに幸せがおとずれたり、不幸が起こったりするという考えの一種で、この墓相に関する本も、とどまるところを知らずたくさん出版されています。
不幸が続くと「何か」あると考え、その「何か」をはっきりとした「もの」か「こと」に理由づけしないことには落ち着くことの出来ない、人間の弱さとずるさがそこにあります。
ここに、迷信の生ずる土台があります。つまり迷信とは、真の解決を計らず、自分以外の「もの」や「こと」に責任を転嫁することです。
墓相では物事は解決しません。それよりか、墓相で物事を解決しようとする自分自身が問題とならなくてはなりません。
迷信に振り回され、障りなしの人生を自ら求めて障りあるものとしている身であるということに気付くべきです。
親鸞聖人は「真実の教えを聞いて迷信から目覚め、明るく確かな正信の道を歩んでほしい」と願われています。
ですから方角や墓相にこだわる必要はありません。
なお墓の正面には、私たちを目覚ますはたらきである「南無阿弥陀仏」と刻むのが望ましいといえます。
詳しくは、手次ぎ寺院のご住職にお尋ね下さい。
9. 「仏壇」はいつ求めれば良いのですか?
「何もないとき」というのはどんなときでしょうか。
おそらく身内に不幸がなく、平穏無事に過ごしているときのことをいうのでしょう。
『何もないときに仏壇を求めると死者がでる』とか、たとえお仏壇があっても、『先祖の霊が宿る場所、むやみにさわって祟りがあっては困る』とかいう何の根拠もない迷信をいう人があとをたちません。
そこには、お仏壇に対する根本的な誤解があるようです。
お仏壇には中尊(中心)にご本尊・阿弥陀如来様を、向かって左右にそれぞれ、ご本尊様のはたらきとしての十字尊号(帰命尽十方無碍光如来)・九字尊号(南無不可思議光如来)を安置します。
このことは、仏壇がただ単に仏様を安置する場所ではなく、そのはたらきをいただく家庭の中心であるということです。
私達のご先祖は悲しいときもうれしいときも南無阿弥陀仏と手を合わせ、一度かぎりの大切な人生を生き抜かれました。
仏壇は心の拠り所です。ですから、求める時期にこだわることなく、一日も早くお求めになることです。
なお、中心となるご本尊は、必ずご本山からお受けいたしましょう。
詳しくは、手次ぎ寺院のご住職にお尋ね下さい。
10. 出棺の時「お茶碗を割り」ましたが、どういう意味があるのですか?
いつのころからか、出棺に際してお茶碗を割るという習慣があるようですが、真宗では一切いたしません。まず、なぜ割らないかという前に、なぜ割るのかということから申します。
割るお茶碗は何でも良いというものでなく、必ず故人が愛用していたものに限られます。
このことは、この世に再び帰ってきても、あなたの食べるお茶碗はありませんということを意味します。
言い換えれば、迷って私たちに災いを及ぼさないようにということであり、二度と帰らないで欲しいというまじないなのです。
日本では古来より死を忌み嫌い、特に死後悪霊となったものを恐れる思想があります。
ですから、お茶碗を割るということは、死者を悪霊とみなしていることになり、宗教以前の問題であり、死者に対する最高の冒涜でしかありません。
肉親や友人、そして有縁の人の死に臨んで心の底から嘆き悲しみ、その涙の乾かないうちにお茶碗を割るというような愚かな行為は、たとえ習慣で皆が行うからといっても、私は絶対にしないという決意を待ちたいものです。