真宗佛光寺派 本山佛光寺

2022年の時事法話

難度海

2022年7月

 今回の第二〇三定期宗会で、ある議員が「大雪で本堂の屋根が大破したので修繕の会議をしたら改修の経費は集められないが、解体の経費なら集められるとのことで、寺を廃業することになった」と、寺離れの進む他宗派のご寺院の状況を話された。
 修復して新たに寺院を護持していこうという方向性ではなく、なくした方が経済的な負担も少なくて済むというのが大半の意見だったのだろう。それは決して他人事ではない。寺院を支えている者の片隅にある心の表れなのかもしれない。
 寺の伽藍の維持管理だけなら風景だけで終わってしまう。しかしその場が生きるための拠り所、すなわち教えの聞ける場であり、安心できる場であればこそ、お念仏を喜んでこられた先人はこの道場に心血の注いでこられたのである。
 親鸞聖人は「顕浄土真実教行証文類」において「夫れ真実の教を顕さば、則ち『大無量寿経』是也」と教えてくださる。そしてさらに、「如来の本願を説きて経の宗致と為す、仏の名号を以て経の体と為す也」と結ばれる。
 このお言葉は、寺院が、真に如来の本願を説く場となり、仏の名号が称えられる場となり、すなわち真の帰依処となることが、今まさに寺院に求められる相であると聞こえてくる。僧侶として襟を正し、危機感を持ちながら身の引き締まる思いで定期宗会を終えた。

2022年11月

 定期宗会で複数の議員より「今、宗教に迷う人たちに本山はどういう立ち位置で、またどういう姿勢で応えていくのですか」という質問を受けた。
 人々の不安をお金で取り除くことが宗教なのか。しいては自力によって自分の思い通りになることが宗教なのか。それに対する私たちの立ち位置を発信しないのは、混迷する社会を黙認していることになりはしないかという厳しいご意見である。
 ある議員は「不安は私の命」といただかれたある念仏者の例をあげられ、不安の原因を外に求めず、自身を見つめる力をいただくのが宗教ではないかとご教示くださった。また他の議員からは次の言葉を頂いた。「思い通り望みを叶えてくれるのが宗教ですか。そんな自身の姿を知ろうではありませんか。正しい道理に目覚めましょう」。
 御門主様は閉会の挨拶で「何より本山は、佛光寺教団、同朋の“心のふるさと”でなければなりません。親鸞聖人に出あい、おみのりをいただいたこの身の幸せを喜べる所でなくてはなりません」とおっしゃた。
 不安の中に人にも、人生が思い通りにならない人生を送っている人にもそっと寄り添える場、それが帰依所であるお寺の本来の姿であり、真実の宗教が語られる場である。そのことを社会にもっと知ってもらえるよう歩んでまいりたい。

2022年3月

 この四月の春法要には、一日目に随応上人二百回忌、家教上人百回忌、並びに宗祖親鸞聖人御誕生法要。そして二日目には来年の慶讃法会の一環として立教開宗八百年法要が執り行われる。
 真宗教団では親鸞聖人の著書『教行信証』草稿本が完成した元仁元年(一二二四年)を「立教開宗」としている。
 昨年秋、慶讃法要の記念五條袈裟ができあがった。色鮮やかな青色の地に、佛光寺藤の御正紋、異紋の八つかん、そして聖人が日野家の出自であることから、鶴の紋があしらわれている。特に地色の青の色鮮やかさは目を見張るものがある。
 「青は藍より出でて藍より青し」という諺が思い浮かんだ。一般的には「弟子が師よりすぐれる」と受け止められているが、優劣という尺度を超えて、師弟ともに切磋琢磨し共に光輝く人生を全うしたお二人のお姿を思い起こした。
 聖人は日野家にお生まれになられ、幼くして両親と別れられた。九歳で得度され、困迷の時代を生きる中、師である法然上人と出遇い、念仏のみ教えを共にいただく。まさに暗闇が光明に転じた時である。念仏のみ教えは時代が変わっても色焦ることなくいよいよ鮮やかに光り輝く。その教えこそが浄土を真の宗(むね)とする立教開宗であろう。
 聖人は師と教えと出遇いをいただき、一生青春を生きた。新しい五條袈裟の青色が、私たちにみなぎる力を与えて下さるような気がした。

2022年1月

 つい一昔前、地方の村々では秋の収穫が終わると報恩講が勤まった。若い人は報恩講に着物や足袋、下駄を新調してもらい、初嫁は着飾って嫁ぎ先のお寺へ初参り。一年の計は報恩講、これが真宗門徒の生活習慣だった。
 本山の御正忌も、お陰様で内々ではあるが厳粛にかつ尊嚴に勤まった。
 晨朝が六時から始まる二八日の朝、午前五時半から梵鐘が鳴り始まる。近所に住む若い方が、朝早い鐘の音に、寝るに寝られず苦情に来られた。このご時世、ビルや住居の密集する本山周辺、様々な生活形態の中で文句が出ても仕方ないこと。梵鐘の時間変更は事前に掲示することで折り合いがついた。
 梵鐘の音を「ご恩ご恩」と聞く事もできれば、騒音・雑音としか聞けない事もある。
 一休禅師が元旦に、「ご用心なさい、ご用心なさい」と京の町をふれ回ったという。その時、町の人々は禅師に石を投げつけた。正月のめでたさに、死を忘れ、ご恩を忘れ、漫然と生きる私たちに、今を生きる意味を問うて下さったが、聞く耳は迷惑千万。
 元旦が、仏法聴聞の初心の日でありたいものである。

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