2021年の時事法話
難度海
2021年11月
自分は死後に極楽浄土などの何らかの異界に往くと考える人が五年前から倍増し、約四八パーセントを占めていることが、一般社会法人お寺の未来総合研究所の調査でわかったという。
新型コロナウィルスの影響で強制的に人間関係が遮断され、孤独や孤立を感じる人が増える中、自分の死後の往く先を考えざるをえない現状に出てきた調査結果であろう。
コロナ禍で通夜や葬儀も家族だけ、もしくは一日葬。法事は延期(中止)という家庭も出てくる中、そうした仏事を不要と考える風潮が高まる一方で、死後の往く先を考える人が多くなってきているということは、自分が本当に安心して帰る場所を心から求めている姿ではなかろうか。
金子大榮師は、我々の帰依処を「生の依り処、死の帰する処」として教えてくださる。「人は死んだらどうなるの」という素直な質問に、はたして僧侶はどこまで応えられるのか。もっと言えば、人はなぜ生まれ、何のために生きるのか。そんな単純な質問に「分かりません」では無責任である。もしそういう答えを出したのならば、それならそれで共にその人と考える姿勢を示さねばならない。
浄土とはまさにその帰依処をあらわすのである。その根幹をなす現代の問題に至急応えていかねばならぬのが浄土真宗の課題である。
2021年7月
五月二十五日の宗会開会識のご門主のご挨拶である。
「最近は新しい概念がいわれるようになりました。EQ、心・感性の知能指数であります。これまでの教育が、IQ知能指数を伸ばすことに力を注いできたため、自分や他者の感情を理解する力、自分の感情をコントロールする力を育てることがおろそかになり、それがやる気や我慢、共感性、謙虚さなどの乏しさとなって現れるようになったそうです。そこに警鐘が鳴らされました。AI(人口知能)社会を生き抜くためにはEQの力、心、感性の知能指数を養う教育がとても大切だという警鐘です。私たちは昔から宗教のある家庭生活が、幼子の情操教育を担ってきた歴史があります。お仏壇に手を合わす生活は意識しないところで心、感性の知能指数を伸ばしているのではないでしょうか。変化する社会にあっても、生き抜くちからとなってくれると信じます」。
家庭、地域社会、学校、会社等、人間関係が崩壊の一途を進む中、コロナウィルスが一挙に崩壊を現実にさせた。学歴社会の競争に打ち勝ち、勝ち組だけが社会に出て作り出す社会。それに対して、相手を敬い尊敬しあい支え合う御同朋・御同行の社会の実現。
御門主のお言葉と日常のお姿に、これからの宗門の在り方と希望を、ご自身の身命を抱えながら置き換えながら、日々ひたすら思惟されていることを、毎日感じさせていただいていることである。
2021年3月
二月二二日は聖徳太子のご命日であり、今年はちょうど一四〇〇回忌に当たる。当派では、二年後の五月に団参を募って慶讃法会をお勤めするとともに、今年の春法要でも御祥当の御縁を大切にお勤めしたい。
人生には孤独という苦難がある。人や周囲と繋がれないというだけでなく、未来と繋がらないという孤独がある。究極的に、死の意味するところが孤独であれば先行きは暗く、人生が虚しくなってしまう。その孤独を超えた明るさが「慶讃」である。「慶は、うべきことをえて、のちによろこぶこころ」、すなわち他力の信心が開いてくださる慶びと明るさである。それを宗祖は、「上宮皇太子方便し 和国の有情をあわれみて 如来の悲願を弘宣せり 慶喜奉讃せしむべし」と仰いでおられる。
「如来の悲願」とは、私たちの心の耳へと呼びかける南無阿弥陀仏である。この明るさに出遇ってほしいという未来からのお喚び声である。同時にそれは、大子のお喚び声であったと、お念仏の歴史に出遇った慶びを宗祖は語ってくださっている。
つまり、私たちには仕事があると仰る。悲願のお念仏を聞くという仕事である。そして、お念仏を呼吸しながら生きるという仕事がある。それがまた、未来へ、次世代へと繋がる種となること疑いないのである。この愚かな私に、広くて明るい仕事を賜る、これ以上の慶びがあるだろうか。
四年に渡り本欄をご縁に聞思させていただいたこと、有り難く感謝する次第である。
2021年1月
惠照様が還浄された。佛光寺第三二代。真承上人に先立たれるなど波乱に満ちた御生涯であったが、いつもにこやかであられた。その慈愛あふれた眼差しで、私たちを仏の子としてご覧になってくださった。佛光寺がこうして今ここにあるのも、惠照様のおかげと、どれだけ感謝してもしきれない。佛光寺にとどまらず、十劫の昔より連なるお念仏の歴史の象徴として、ご本願の温もりを伝え続けてくださった。そして、今度はあなたたちがその責務を全うしてくださいねと、静かにその歴史へと還っていかれた。
密葬の御挨拶の中で、第三三代を継がれた真覚門主は、そのバトンのしるしとして、「みんな仲良くね」という惠照様の常のお言葉を紹介された。死をご縁として、普段のお言葉が生き生きと鮮やかに響き始める。これは、身体の役目を終えられても、先人が願いに生きておられる証であり、無量の寿そのものである。
惠照様の歩まれた跡を慕い、我も今こそと、お念仏の歴史に喜んで加わる覚悟こそ、本願一実の大道であろう。それは、安心してこのいのちを尽くしていける無碍の成仏道である。
いのちを懸けるべきものとの出遇いこそ、人生の幸せである。その出遇いの感動を、いかに次世代へ繋げていくべきであろうか。鬼滅の刃は、いのちを懸けて鬼から人々を守らねばという、数百年を貫く願いに生きる物語である。今の若い人たちも、いのちを懸けて責務を全うすべきものに、本当は飢えているのではないだろうか。