真宗佛光寺派 本山佛光寺

2009年の時事法話

難度海

2009年10月

この度の衆議院選挙では、予想を遥かに上回る変革の嵐が吹き荒れ、政局が一変した。まさに佛光寺教団が大遠忌法要の標語として掲げる「変わる時代、変わる心、変わらぬ苦悩、変わらぬ念仏」が、現実のものとして示されたということであろう。しかし、傍観 している場合ではない。宗教法人を取り巻く社会環境には非常に厳しいものがあり、その対応を誤れば、教団は間違いなく疲弊して行く。前政権時代から政府は公益法人制度改革に乗り出しており、非営利法人の原則課税制度の必然的成り行きから、宗教法人が課税対象となることは、決して遠い将来のことではない。また、豊かさと便利さの狭間で人々の精神活動は低下の一途を辿り、宗教に救いを求めない人が増えて、参詣者は目に見えて減少している。都会では僧侶を必要としない直葬やお別れ会が急増しているという。そうした時代社会にあって、大遠忌は次世代への念仏相続を断行する、またとない機会といえるだろう。

2009年7月

七月一三日に臓器移植法案が参議院を通過した。一二年振りの同法案の改定で、これによって一五歳未満の子どもからの臓器移植が可能となり、臓器移植を待つ一万人余りの人々に救いの手が差し伸べられることとなった。しかし、そこには様々な問題が内包 される。臓器移植に利害得失のない者からすれば脳死をもって人の死とすることに大きな抵抗感がある。シビ王物語に示されるように、いのちの平等に立つ仏教徒からすれば、神の名の下に人間の意志を正当化する一神教的考え方には違和感がある。すなわち、脳死を認めるということは、私を私たらしめている六〇兆個の細胞に優劣順位を付けることになり、自殺をも容認することに繋がりかねない。命は誰しも救いたい。しかし、そこには自ずと限界がある。「聖道の慈悲というは、ものをあわれみ、かなしみ、はぐくむなり。しかれども、おもうがごとくたすけとぐること、きわめてありがたし」と、『歎異抄』にはある。

2009年5月

人は意識の上では、本音と建前を使い分けているが、思わず本性を現わす場面がある。誰も見ていない時、腹が立った時、大事件や大災害に遭遇した時等である。人目を盗む、後悔先に立たず、火事場泥棒といった言葉が示すように、多くの場合は悪事として現われ る。しかし、そればかりではない。一九七四年二月にブラジルのサンパウロにある二五階建のジョエルマビルの一二階から火災が発生し、一五階から母親がカーテンに包んだ三歳の息子を抱締めて飛び降り、自身は即死したが、息子は奇跡的に無傷で助かった事例がある。ジョエルマの奇跡に限らず、わが国でも大震災で自らの生命を犠牲にして我が子を救った利他行が報告されている。閉園の瀬戸際にあった旭山動物園を復活させた小菅正夫元園長は、「生き物が生きている唯一の目的は、その『いのち』を次の世代にバトンタッチすることである」と語る。教団に課せられた使命は次世代の念仏者を生み出すことにある。

2009年3月

脳の研究が飛躍的に進展した近年、男と女の脳に大きな相違のあることが次々と判明した。男は空間認知力に、女は言語認知力に優れ、それらの相違は狩猟採集生活に起因するという。獲物を仕留めた男は最短距離で帰還する必要から、採集を受けもつ女は、いつ 何処で何が採れるかを記憶する必要から、それらの能力が発達した。一五歳前後から男は危険を察知するために恐怖心を司る扁桃体が、女は収穫を得るために記憶を司る海馬が発達する。妻が結婚記念日を忘れずにいることも、娘より息子の方が慎重であることも、妙に納得できる。人の行動の大半は無意識の判断に支配されるという。人は本音と建前を使い分けているつもりでいるが、本当のところは自身の本音さえ知らずにいるのではないか。意識したことを本音と思い込んでいるのである。『大経』には「心口各異 言念無実」とある。理性や道徳は意識の世界であるが、仏法はその奥にある無意識に光を当てて、人間成就を説く。

2009年1月

視覚情報を写真に撮ったように記憶する能力を直観像といい、チンパンジーのそれは人よりはるかに優秀である。人もかつては素晴らしい直観像を持っていたが、言葉を話すようになって、聴覚情報の処理に記憶力を振り向けるようになってから低下したという。その聴覚情報の処理は時の流 れという時間軸に拘束されるという点で、いつでも好きな部分を取り出せる視覚情報処理と大きく異なる。例えば、電話番号は見るより聞いた方が早く正確に覚えられる。しかし、聞いた番号を逆から言えといわれれば答えられない。人は言葉を話すようになって、物事には順番があるということ、すなわち因果律を無意識の内に身に付け、思考能力の面で劇的な進化を遂げたといわれる。釋尊の成道も、この因果律に基づく縁起の道理に拠っている。テレビゲームに没頭する余り現実と仮想を区別できない子どもが生まれたとの指摘もあるが、一方通行の視覚情報処理に追われる現代生活には、どこか無理がある。リアルタイムで聴覚情報処理をする他者との対話に心掛ける必要があろう。

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