真宗佛光寺派 本山佛光寺

2024年9月のともしび

常照我

イラスト 岡山県真光寺住職 守城尚子さんイラスト 岡山県真光寺住職 守城尚子さん

(略歴)成安造形大学メディアデザイン領域CG・アニメーションコース卒業。株式会社ピーエーワークスに約三年勤務。退職後に岡山県真光寺住職を継職。現在は、放課後児童クラブ支援員、イラストレーターを兼業。


 父の二十七回忌を迎える。父が病したのは、今の私の年齢だった。それを思うと、私は父に比べてどれだけのことができたのかと自問する。
 そして同時に、人生の曲がり角をとうに過ぎていたことも実感される。人生の後半をいかに生きるべきか。
 ある布教使は、初老期の心の持ち方の大切さを語る。人生の先輩という風格の方、子どものように自分ばかりを主張する方、どちらの方向に進むかは、初老期に成熟を目指したかどうかにかかっている、と。
 私は「成熟」を意識して生きてきただろうか。成就できていない自身を実感し、ハッとする。
 感謝の日暮しか、愚痴の毎日かは、眼差しの深さと心の持ち方で変わる。心の眼を養う、それが私のこれからの課題である。

  (機関紙「ともしび」令和6年9月号 「常照我」より)

 

親鸞聖人のことば

曠劫より已来
常に没し常に流転して
出離の縁有ること無しと信ず。

『教行信証』より(『佛光寺聖典』二三七頁)


【意訳】

 遠く果てしない過去から現在に至るまで、常に悩み苦しみを繰り返し続けている私は、これからも救われることのないことを知らされました。


常に流転して
 仏教では、苦悩を流転する姿を六道と教えています。地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天という六つの状態を常に変化し生きているのです。諸行無常であり、あの時の私と今の私とでは違うのです。
 先日、鍋をしようと妻とスーパーに行きました。私が白菜を手に取ったその時、妻が友人に声をかけられ二人の立ち話が始まりました。
 長話が終わるのを素直に待つ私は、「人」という状態と言えます。
 帰宅後、白菜が見当たりません。私が買い忘れたのです。すると「え、何やっているのよ」と妻の一撃。間髪入れずに「お前の長話のせいだ」と反撃。謝罪の心も吹き飛び、一瞬で私は争いを意味する「修羅」となったのです。
 沈黙が続く中「どっちが買いに戻るのか」と、思ったその時「プシュ」と音がしたので振り返ると、妻は缶ビールを口に。私はスーパーに戻る車の中で「必ずやり返す、倍返しだ」と叫びました。自分の非を忘れ、相手を憎む姿はまさに「地獄」です。
 鍋ができあがりますと、怒りを忘れ貪り食べる姿は「畜生」。満腹は「天」。鍋は消化が早く、夜ふけに台所で食べ物を探す姿は「餓鬼」です。

愚かな姿
 私も歳を重ね、経験を積んで一人前だと自負していました。しかし、白菜ひとつで私の状態は「人」から様々に流転してしまうのです。
 この愚かな姿の私を目あてに、阿弥陀仏の願いがすでに届いているとお念仏の喚び声がひびいてきます。

  (機関紙「ともしび」令和6年9月号より)

 

仏教あれこれ

「ありがとうのサイン」の巻

 先日、車で遠出した帰りのことです。高速道路の入口に着くと料金所の手前で渋滞が起こっています。掲示板には「事故渋滞10キロ」の文字が。
 ノロノロと進むこと約十分。高速道路の本線に合流するため右にウインカーを出し、本線の車が譲ってくれたスペースに自分の車を進ませます。ようやく合流できたところで、ハザードランプを二、三回点滅。
 これは法令で決められたものではありませんが、進路を譲ってくれた後ろの車に感謝の意を伝えるためのドライバーマナーです。
 その直後、整然と並んで合流を待つ車列を無視して、私の数台前に無理やり割り込もうとする車がいます。しかし、皆がそのマナー違反の行動に腹を立てているのか、なかなか合流させてもらえません。
 「しようがない。よほど急いでいるのかも」と思い、私の前に合流させてあげました。良いことをした、という思いが渋滞のイライラを少し和らげてくれます。しかし、いくら待っても前の車のハザードランプが「ありがとう」と、点滅しないのです。点くのは赤いブレーキランプのみ。「せっかく合流させてあげたのに。なんてマナー知らずなヤツ」。
 「した」見返りが得られなければ、とたんに「してあげたのに」と、腹を立てる私。「その怒りにブレーキを」と私を諭すように、前の車の赤いブレーキランプだけが何度も点滅していました。

  (機関紙「ともしび」令和6年9月号より)

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