2024年8月のともしび
常照我
イラスト 岡山県真光寺住職 守城尚子さん
(略歴)成安造形大学メディアデザイン領域CG・アニメーションコース卒業。株式会社ピーエーワークスに約三年勤務。退職後に岡山県真光寺住職を継職。現在は、放課後児童クラブ支援員、イラストレーターを兼業。
「虫捕り四か条」という文章を目にし、感銘を受けた。
一、虫の気持ちになりましょう
二、必ず家まで虫を生かして帰りましょう
三、連れて帰った虫は、きちんと飼いましょう
四、もし生き物が死んだら、お墓をつくってあげましょう
捕る必要のない場合は観察する。捕るなら死なないよう責任を持つか、日を限って元の所に帰す。もし死んでしまったらお墓をつくる。虫は、自然界では自然の循環に還っていくが、人間界ではゴミ袋に入れられる。それは命への向き合い方ではない。だから大切ないのちとして手を合わせる。大切な心だと感じた。
同じ時間を過ごした相手を大切にする。それは人生の出会いと生きてきた時間の大切さに気づいていくことなのだろう。
(機関紙「ともしび」令和6年8月号 「常照我」より)
親鸞聖人のことば
無明煩悩しげくして
塵数のごとく遍満す
愛憎違順することは
高峯岳山にことならず
『正像末和讃』より(『佛光寺聖典』六二七頁)
【意訳】
いつでも自分中心に物事をはかる心は、塵の数ほど世の中に満ちあふれています。自分の都合によって貪り(貪愛)と怒り(瞋憎)の心がわき立つのは、まるでそびえ立つ高い山々のようです。
数年前、お寺の向かいの土地が売りに出されました。以前から参詣者用の駐車場が欲しかった私は、何とかお金を工面してその土地を購入しました。
無断駐車
数台で満車の小さな駐車場ですが、遠方からお参りになる方にはとても喜んでもらえました。私は「思い切って買ってよかった」と大満足でした。
ところがしばらくすると、法要もない日に見知らぬ車がたびたび停まるようになりました。というのも、うちのお寺は観光地にあり、見知らぬ車のほとんどは駐車場代を惜しんだ観光客の車だったのです。
それからというもの、無断駐車を見つけるたびに怒り心頭の私。時には一言文句を言うために、停めた人が戻ってくるのをカーテンの隙間からずっと見ている時もあるほど…。
塵の数、大きな山
どうして腹が立つのでしょうか。正しく物事を見れば「駐車場に車が停まっている」という事実がひとつあるだけです。その事実を「ここは私の土地だ!」という執着心でもって、自分の都合中心で判断するから腹が立つわけです。
例えば仮に無断駐車があったとしても、ご門徒だとわかれば腹を立てないでしょうし、観光客だったとしても、後からお賽銭をあげてもらえたらコロッと気持ちが変わってしまうかもしれません。まさに愛憎違順。
塵の数ほどある自己中心の思い、大きな山のようにそびえる愛憎の心。その意味は、それらを取り除くことがいかに困難かということでしょう。あなたの姿を一番悲しんでおられるのが仏様だよ、と親鸞聖人は私に呼びかけておられるのでした。
(機関紙「ともしび」令和6年8月号より)
仏教あれこれ
「法事のお斎で」の巻
コロナ禍が一段落して、法事のあとで以前のようにお斎をされる方が増えてきました。
料理屋さんの座敷で施主のご挨拶が終わり、お酒を酌みかわしてしばらくすると、みなさんの緊張感がほぐれて、思い出話などで会話がはずんできます。
お斎でお隣の席に座る親戚代表は、高校の部活の先輩でした。真宗の門徒さんではありません。
「おつかれ様でした」とビールをついで下さったあと、「ところでご住職……」とお話が始まりました。
お仕事上のお付き合いから、年間三十件以上さまざまな宗派のお通夜に列席されているそうで、お話には説得力があります。先輩だからというだけではなく、素直にお話をお聞きします。
「読経のことばがはっきり聞こえて来てよかったですよ」とまずは褒めてくれます。
「お通夜や法事で、ご法話をしてくださるのはありがたいです。ご法話をされないお坊さんもいますけど、わたしはこういう場でのご法話をとても楽しみにしてるんです」
「難しい仏教用語があまりなくて、分かりやすかったです。でも、わたしたちはお話の途中でお坊さんにダメだしできないんだから、黙ってるからといって延々と長話は絶対ダメですよ」と聞き耳を立てている親戚の人たちに同意を求めると、みなさんニコニコしています。
こんな風に率直な感想をお聞きできるのはめったにないこと。「法話の時間はある程度下さいよ」と抵抗しながら、その後もみなさんと、かけがえのないお斎の時間を過ごしました。
(機関紙「ともしび」令和6年8月号より)