2024年5月のともしび
常照我
イラスト 岡山県真光寺住職 守城尚子さん
(略歴)成安造形大学メディアデザイン領域CG・アニメーションコース卒業。株式会社ピーエーワークスに約三年勤務。退職後に岡山県真光寺住職を継職。現在は、放課後児童クラブ支援員、イラストレーターを兼業。
大学の課外学習で山に入った五月、山全体が木の香りに包まれ新緑が芽吹いていた。個々の木の特徴を教わったとき、単に「山」と見ていたものが様々な命の共生の世界であったことが実感でき、私の目が一変した。
『大経』には木立からそよぐ風からも真理の音色が聞こえるとある。仏のさとりは、一切のもの一つ一つを見過ごさず、さらにはそこに無量の徳を見いだすことができるのである。
今日の私は風を感じられているだろうか。これは木々だけの話ではない。家族の声が聞けているか、人が見えているか。気付こうとしているのか。見ているようで見えていない、聞こえていても聞かない、自分ばかり見ている私になってはいないか。
周りに目を向けよと、種々に香る初夏の風が教えてくれる。
(機関紙「ともしび」令和6年5月号 「常照我」より)
親鸞聖人のことば
大悲倦きこと無くして
常に我を照らしたまえり。
『正信偈』より(『佛光寺聖典』二二九頁)
【意訳】
阿弥陀さまの大悲のお心は、決してあきらめることなく、常に私を照らし続けてくださっています。
二十八年前、私の暮らす地域で大きな地震がありました。
地震発生から三日。物資の不足が差し迫る中、被災を免れた街との間で電車がピストン輸送を始めたと知ります。
弟との買い出し
父が年配のご門徒さんに必要なものを聞き、私と中学生だった弟で買い出しに行くことに。父から「好きなもの食べてきていいぞ」とお金をもらい、弟はうれしそうでした。大きなリュックを背負い、カートを引いて駅に向かいます。三日間お風呂に入れていない私たちは薄汚れていました。
電車で二十分。目的地に到着して驚きました。スーツを着た大勢の人。デパートに並ぶたくさんの商品。おしゃれをしてショッピングを楽しむ人。そこには平常の生活がありました。
買い出しが終わり、弟に「何か食べるか?」と聞くと、弟は「いらん」とうつむきます。
帰りの電車の中、無言で座る私とおそらく弟も、その胸中にあったのは、私たちはもうすでに忘れ去られている、という悲しさと不安でした。
大悲に照らされる
今年、能登地方で発生した震度七の地震。その惨状を見て、二十八年前の経験をまざまざと思い出しました。
大悲とは、すべての人の悲しみを私も背負うと誓われた阿弥陀さまのお心。そのお心に背を向け生きる私を、照らし続けてくださいます。その光に出遇う時、この先も続く被災地の悲しみと苦悩を、自分中心の生活の中に埋もれさせ、忘れてしまいかねない私が問われます。
忘れ去られてしまう悲しさと、その不安を、思い知ったにも関わらず。
(機関紙「ともしび」令和6年5月号より)
仏教あれこれ
「ケイザイとオキョウ」の巻
昨今、コロナ禍や世界情勢の影響で「経済」という言葉をよく耳にします。先日の国会中継では「経済対策としましては……」という言葉が何度も聞こえてきました。
ふと、「お経」と「経済」って同じ「経」の文字ではないかと、今さらではありますが驚き、違和感を持ちました。
さっそく調べますと、中国の古典に「経世済民」という言葉があり、略して「経済」。その意味は「世を経め、民を済う」だと知りました。「経」には「おさめる」という意味もあることを知りました。
古代インドでは、お釈迦さまの言葉である「経」を「スートラ」と言い、中国では「経糸」と訳されました。私たち衆生を横糸と見立て、しっかりと張られた経糸によって布が織りなされるように、経(教え)によりしっかりと生きていけるという意味です。
そういえば、今では日本最古の貨幣である「富夲銭」にも、「国や民を富ませる夲(本)」という意味があると知りました。
数日後スーパーに鍋の具材を買いに行きました。手にしたホウレンソウの高値に驚き、次に小松菜、水菜と手に取りましたがどちらも高値。しかたなく、野菜は白ネギともやしを買い家に帰りました。
夕食中、青物が無い鍋を覗き「農家とスーパーの経済の為にも買うべきだったな」と、せっかく知り得た先人の願いに反した自身を、はずかしく思いながら白い具材の鍋をいただいたのでした。
(機関紙「ともしび」令和6年5月号より)