2024年1月のともしび
常照我
「七宝模様」
同じ大きさの円を1/4づつ繋いだ模様で、真ん中は丸みを帯びたひし形になる。この模様の上下左右への広がりは、人間関係の広がり、子孫繁栄の広がりが四方に伸びることを意味するとの説があり、四方(しほう)から七宝(しっぽう)と当て字されたといわれる。七宝は『仏説阿弥陀経』の中で、金・銀・瑠璃・玻璃・硨磲・赤珠・瑪瑙である。桜は、佛光寺第七代了源上人ご殉難の地である桜峠(七里峠)から用いられ、この裂は、了源上人650回御遠忌の袈裟裂として調製された。
年が明け、受験生にとっては入試の季節。思い通りの結果が出ることを誰しも望みます。
だけど思い通りにならないことも多々あるのが人生。私自身、第一志望に合格し、これでこの先も安泰と大学生活をスタートしたものの、予期せぬ事態に遭遇し、留年と休学の回り道。
何かを成し遂げ素晴らしい自分になりたい、でもなれない。そんな時、自分で自分を見捨てたくなります。でも、そんな挫折感に沈む間も、周囲は私の状況を非難することなく、いつも通りに接してくれました。
それは後から気づいたことですが、どんな自分でもそのままに受け止めてもらえる、その有難さが身に沁みました。そしてその有難さは、仏さまの「お前を見捨てないぞ」という喚びかけにも重なってくるのです。
(機関紙「ともしび」令和6年1月号 「常照我」より)
御親教
日ごとに秋も深まり、風に揺れる木の葉も彩を深め、紅葉の美しい時節となりました。本日は御正忌報恩講に、ようこそお参りくださいました。
五月の慶讃法会には全国から大勢の方々が本山佛光寺にお参りくださり誠にありがとうございました。この九月二十八日、本廟での慶讃法会をもって円成いたしましたこと、大きな慶びを感じるとともに、これからの責任も同時に感じております。
新型コロナウイルス感染症の猛威の中での準備や勤修は、先の見えない状況の中にありました。また広範囲にわたる自然災害が頻発しています。さらに世界では多くの国々で悲惨な戦いが続き、恐怖と不安の中にあります。
親鸞聖人は『高僧和讃』の曇鸞讃の中で、
尽十方の無碍光は
無明のやみをてらしつつ
一念歓喜するひとを
かならず滅度にいたらしむ
と詠まれています。
無明の闇とは自分中心の思いの中でお互いに傷つけあい、苦しみ惑う私たちの姿を教え示してくださる言葉です。
私たちは無明の闇の中にありながら、それとは気づきません。阿弥陀様の無碍のみ光に照らされるとき、はじめて私自身の生き方が無明の闇であったと知らされます。
どうにもならない大きな悲しみの中で、そのみ光に出遇い、親鸞聖人は曇鸞大師のお言葉を通して、生きる喜びを見い出されました。
無碍のみ光に出遇い、念仏申して生きられた方々を「大悲に生きる人」と呼び、その人を通して、念仏に生きる人となることが「願いに生きる人となる」のであります。
この度の慶讃法会を機縁として新たな念仏者が誕生する出発点となるよう願います。
私自身も順風満帆とはいかない日々ですが、お念仏を申し、お念仏の教えを聴聞しながら、喜び味わい歩ませていただいております。その歩みの中で、皆様と共に仏徳讃嘆させていただきたいと願うところです。
本日はようこそお参りくださいました。
年頭のご挨拶
宗務総長 八木 浄顯
新年を迎え、お内仏にてご家族お揃いでお参りされ、新たなる歩みを始められたこととお慶び申し上げます。
昨年は五月に「慶讃法会」を「大悲に生きる人とあう 願いに生きる人となる」の基本理念のもと、三期九日間執り行い、九月の佛光寺本廟での慶讃法会をもちまして円成とさせていただきました。
これ、仏祖の冥助はもとより、全国ご寺院ご住職、門信徒の皆様方の愛山護法のご懇念の賜と、心より厚く御礼申し上げます。
バブル崩壊後の一九九三年から二十三年間、NHKのクローズアップ現代を勤められた元キャスター国谷裕子さんが、その間の日本の変遷について話しておられます。
一つは、経済的価値が優先され、人間がコストとして見られるようになった。
もう一つの変化は効率性の広がりです。物事は複雑なのに、時間がないから深く考えることをやめてしまい、多数派にくみしてしまうということでした。
このことは、作家の五木寛之さんが言っておられるように将来に残しておきたい「情」が、日本人から消えていったように思われます。この情が無くなったことにより、国や宗門を取り巻く状況をじわりじわりと変化させ、新型コロナウイルス感染症でより加速した感じがします。
人間中心の経済的価値を優先させ、効率性を追求することが、互いに不寛容な人間環境をつくりだし、生きづらさが蔓延しているように思います。
このような中、第三十三代真覚御門主様が佛光寺の法灯を伝承され、昨年の御正忌報恩講の御親教で「曇鸞讚」
尽十方の無碍光は
無明のやみをてらしつつ
一念歓喜するひとを
かならず滅度にいたらしむ
のご和讃をお引きになられました。無明とは自分中心の思いの中でお互いに傷つけあい、苦しみ惑う私たちの姿を教えてくださる言葉であると、お示しくださいました。
御門主様の慶讃法会の御消息にもありますように、科学技術や医療技術の発展により、我々人類はより快適に、より健康で長生きできるようになりました。しかし、いのちの輝き、躍動は阿弥陀様のはたらきに目覚めることなくしては得ることができません。世の中が変わっても変わらないのが、生きとし生きるものすべてを迷いの世界から浄土に生まれさせる阿弥陀如来のはたらきなのです。
慈光はるかにかぶらしめる中、一座でも多く聴聞のしていただけることをお念じ申し上げ、年頭のご挨拶とさせていただきます。
仏教あれこれ
「最新の掃除機」の巻
昨年、年末の大掃除に向けてコードレス掃除機を買い替えることにしました。
長年使用していた掃除機は重く、特に女性には使いづらいと妻の愚痴を何度も聞かされていました。妻の希望は軽くて扱いやすく、充電後に長時間使用できるもの、とのこと。
さて、買い替えが決まれば、家電製品好きな私による比較検討が始まります。各メーカーの製品に搭載されている最新の機能や価格、重量や吸引力、充電にかかる時間から充電後の連続使用時間、実際の使用感はネットのくちコミを見て参考にします。面倒なようですが、私にとってはどれを購入しようか迷っている時間が楽しいのです。
そして購入したのが、以前使っていたものと同じメーカーの最新の掃除機。ゴミを吸い込むノズルの先から床に向かって緑色のレーザーを照射し、目に見えないゴミを可視化する最新機能を搭載しています。
購入した翌日、実際に使用した妻にその感想を聞きました。すると、「確かに軽くて使用時間も十分なんだけど、時間がかかって……」と言います。私も自室を掃除してみました。すると、レーザーが照射された先に無数の微細なゴミが浮かび上がります。気づけばいつもの倍以上の時間がかかっていました。
見えなければ気にならなかったのに、可視化されたばかりに……。私たち家族は最新の機能とともに、新たな苦悩をも手に入れることになったのでした。
(機関紙「ともしび」令和6年1月号より)