2023年9月のともしび
常照我
「菊紋様袈裟裂」
古来、菊は不老長寿の花として愛用され、皇室の御紋章として使われるようになった。本山でも桐紋と同様多く使われている。
親鸞聖人650回大遠忌の際には、皇室より真宗各派に菊桐唐草紋様袈裟が下賜された。
山形と新潟を結ぶ海沿いの路線を「海里」という観光列車が走っています。車窓からの日本海の景色が売りで、私が乗った日は日没時刻に絶景ポイントを通過。海に沈む夕陽を存分に堪能でき、いたく感動しました。
西方浄土に導く光とはさもあらん、という力強い陽光。この身が日光に照らされるように、我が心は仏の光に照らされているよ、と語りかけてくれているようでした。
現代の私たちは地球は丸いと知っていますし、物理的に水平線の彼方にお浄土があるわけではありません。でも、まぶしすぎて見えない真昼の太陽と違い、夕陽のおかげで、あの太陽からの光が今まさに私に届いているのだと視覚的に知らされ、これが仏の光に照らされるということか、と直観で感じたのです。
(機関紙「ともしび」令和5年9月号 「常照我」より)
親鸞聖人のことば
煩悩、眼を障えて見たてまつらず
『正信偈』より(「佛光寺聖典」二二九頁)
【意訳】
煩悩という自分の都合でしか物事を見られない私。
私は以前「浄土ってあるのですか」と、疑いをもって先生に質問したことがあります。先生は「あります。でもそこにあなたが存在すると浄土ではなくなります」と即答されました。
凡夫の私は、どこに居ても常に自分の都合でしか物事を見られない、ということを教えられていたのです。
昼食
先日、友人と二人で出かけた時のことです。
フェリーからの眺めは、光る海と、眼の前の雄大な山で絶景でした。
港に着き車を走らせ、さて昼食をと見渡せば「海鮮丼」「名物ちゃんぽん」と書かれたのぼりがあちこちに見えます。さっそく駐車場に入ると「定休日」の札。次のお店も「定休日」。さらに次のお店では、暖簾をくぐると「夕方からだよ」と無愛想な店主の返答。
車中ではまず私が「田舎だな」と口火を切りました。友人は「山と海だけだ」と応答。さらに二人で「愛想がない」と店主の批判。ところがしばらくして、見つけた店でうどんを頂き満たされると「さすがに出汁がうまい」「山海の恩恵だ」と大絶賛。
夕食
帰りの船内では、「何食べるか」「街は何でもあるから」と、夕食話に花が咲きます。
しかし夕食を終え、支払い金額を見た私たちは「高い」「街はだめだ」と不満を言いながら会計へ行ったのです。
帰宅途中「そこにあなたが存在すると浄土ではなくなります」と、普段は思いも出さない先生の言葉が聞こえてくるのでした。
(機関紙「ともしび」令和5年9月号より)
仏教あれこれ
「サウナでハット?」の巻
自宅から車で五分のところに私が二十年以上通うスーパー銭湯があります。ここ最近はサウナブームのようで若い人の姿を多く見かけるようになりました。その若いサウナファンが決まって身に着けているのがサウナハット。タオル地の帽子で、熱で頭がのぼせるのを防ぐ効果があるそうです。
サウナは裸一貫、頭がのぼせるのも含め、限界まで我慢するからこそ気持ちがいい。そう信じている私は、サウナハットのにわかファンを冷たい目で見ていました。
ある日、銭湯の受付に行くと抽選会が行われています。くじを引いて当たったのが三等のサウナハット。いちおう手に持ってサウナに入ってみました。しかし、裸に帽子だけをかぶる勇気がどうしてもでません。
人がいないタイミングを見計らい、そっとかぶってみます。気づくといつもなら限界をむかえるはずの時間をとっくに過ぎていました。体は気持ちよく汗をかき続けています。脱衣所でもうひとつ気づきました。いつもなら熱で傷む髪がパサついていません。それ以降、裸一貫、赤い顔で頑張っている人を見るたび「このサウナハットの良さを知らずにかわいそう」と憐れむ私がいました。
こびりついたつまらないこだわりで、世界を小さくしていること。一瞬で立場を変えるおどろくほどの変わり身の早さ。立場を異にする人を認めない私の愚かさを、サウナハットに教えられたのでした。
(機関紙「ともしび」令和5年9月号より)