2022年12月のともしび
常照我
「サンゴのガレが堆積して出来たバラス島」 撮影 西表島ウォーターマン 徳岡大之さん
今から約三年前、ある言葉を初めて耳にした。「新型コロナウイルス」。
常に感染症の不安を感じながら過ごした三年は長い。変えざるを得なかった生活、諦めなければならなかった日常。私自身、気づかぬうちに変わり、大切なことを諦めてしまっていないか。
先日、久しぶりに電車に乗った。吊革につかまりスマホの画面に目を落とす。しばらくして私の前に座っている男性が激しく咳込みだした。思わず後退る。後ろに立つ女性にぶつかり謝った私に、苦しむ男性を心配する気持ちはかけらもなかった。
常照我。仏様の光は何事にも動じず、決して変わることなく常に我を照らす。日常を取り戻そうとする今だからこそ確かめたい。常なる光に照らされた私自身を。
(機関紙「ともしび」令和4年12月号 「常照我」より)
親鸞聖人のことば
さるべき業縁のもよおせば、
いかなるふるまいもすべし
『歎異抄』より(「佛光寺聖典」八〇二頁)
【意訳】
そうなるべき縁があったならば、どのようなふるまいでもしてしまう私なのです。
イライラ、クタクタ
先駆的な子育て支援事業を手がけるNPO法人の広報に、こんなエピソードがありました。
夫は単身赴任、頼れる実家もなく孤立した状況で、二歳半と一歳の子どもの育児に追われる専業主婦のAさん。
一日中三人でいると、上の子が下の子を度々いじめて泣かせる。下の子のオムツを換えている間に上の子がオムツを脱いで走り回り、粗相をする。毎晩の夜泣きもあり、ちゃんとした睡眠が一年以上とれずクタクタ。イライラして子を激しく怒り、思わず「お前なんかいらない」と激昂してしまう。そんな自分にハッとして落ち込み、もう限界…と自然と涙が流れる。
そんな折、NPOのモデル事業で、保育園での定期的な預かり支援を受けることに。子どもと離れる時間が取れ、一緒にいる時には逆に、子どもを本当にかわいいと思えるようになった、というお話でした。
うれしくても悲しくても
子どもを授かった時はうれしいご縁として喜んだ。なのに幸せの縁と思っていた子どもが苦の縁ともなり、辛く当たってしまう悲しさ。
思わず、思いもよらぬことをしてしまうのが私たちなのです。その時は問題ないと思っていても、後から愕然とすることもあります。まさか自分がそんなことを…という驚きと悲しみ。
親鸞聖人は、私たちを、縁によりいかなるふるまいをするか分からない、悲しい存在であると見据えられました。そんな私たちだからこそ、決して見捨てないぞという仏さまのお心が支えとなる。それがお念仏をいただいて生きていくことだと、私は受け止めております。
(機関紙「ともしび」令和4年12月号より)
仏教あれこれ
「オレ、バンガル」の巻
三歳半の孫、「次男のあるある」ですが、年長さんの兄貴にくっついてまわり、同じことをしたがって嫌がられています。ついこの前までは「フミヤにもやらせてー」と言っていたのが、いつの間にか「オレもやる」に変わってきました。兄貴の名前も、呼び捨てにし出しました。
反抗期の始まりでしょうか、思い通りにならないと地団駄を踏んだり、どこで覚えたか暴言を吐いたり、「もう、しーらない」とふてくされて隣の部屋にこもったり……子育ては大変です。
先日、運動会を前にして、兄弟で仲良く歌ったり踊ったりしてくれました。「うんどうかーいだ、チャッチャチャチャ」。
次男は目をきらきらさせて、「オレ、バンガル(ガンバル)」と叫びます。「ああいいなあ」と家族はみんな笑顔になりました。こんな幼児ことばを聞けるのは一時のことです。
「子どもたちがどんどん成長していくのも諸行無常ということですよ」と教えていただいたことがあります。
学校で習った『平家物語』の冒頭部分のせいか、平家が滅びていくマイナスのイメージを、「諸行無常」という言葉に抱きがちですが「すべてのものは例外なく変化し続けている」ということが本来の意味。幼いいのちも、また。
刻々と成長していく子どもたち、あまり早送りのように大きくならないで、ゆっくり今の姿を見せてほしいと思うのは、子育て当事者ではない、じいちゃんだからでしょうか。
(機関紙「ともしび」令和4年12月号より)