2022年8月のともしび
常照我
「乱舞」 撮影 西表島ウォーターマン 徳岡大之さん
「そもそも、人道的に他人を傷つける兵器など存在しないのです」。ある報道番組で、非人道的な兵器について解説を求められたジャーナリストが、声を震わせていた。
兵器だけではない。言葉やふるまいという身にそなわる武器で誰かを深く傷つける時、あなたは人ではなくなる。震える声で、そう告げられたように聞こえ、ドキリと胸が痛んだ。
遠国で起こる争いは、決して他人事ではない。テレビや新聞で見聞する身も心も傷ついた人々の姿に胸を痛める。その一方で、自分や自分の大切なものを守るためには、平気で誰かを傷つけてしまいかねない私がいる。
終戦の八月。私には、決して人でなしにはさせないという仏の願いが、教となって届いている。耳を傾け続けるしかない。
(機関紙「ともしび」令和4年8月号 「常照我」より)
親鸞聖人のことば
文沙汰して、さかさかしきひとのまいりたるをば、往生はいかがあらんずらんと、たしかにうけたまわりき。
『親鸞聖人御消息集上』より(「佛光寺聖典」七二七・七二八頁)
【意訳】
いかにも賢そうな振る舞いをしている人こそ往生できるか心もとないものだと、法然上人から確かにうかがいました。
勤務したある小学校でのことです。正門前には県道が走り、普段から児童の交通安全を見てくださっているおばあさんがこんな話をしてくださいました。
何て言ったと思う?
「今朝は少し急いでいたんです。それで、車の通行に合間があったので、横断歩道の手前で、道をひょいと横切ったんです。」
それを、間の悪いことに集団登校の一団が見てしまい、なかでも日頃、おばあさんから注意を受けていた男の子が一目散に駆け寄ってきたんだそうです。
「先生、何て言ったと思う?」
「失礼なこと言いましたか?」
なんとその子は、「怖くなかった、だいじょうぶ?」と、おばあさんの予想に反して、優しく気遣ってくれたとのこと。
「この歳になって改めて、子どもに教えられました」と、うれしそうに私に話されました。
素直なまことの言葉
私は、人と接するときに頭の中でよくシミュレーションをします。特に、都合の悪いことが起こったときの説明の際などはなおさらです。この場合ならば相手はこう思ってこんなふうに言うだろう。ならば、こう言い返さないと体面が保てないぞ、などと考えを巡らします。
おばあさんも、あのとき、そうだったから虚を突かれたのでしょう。私も「何て言ったと思う?」と問われたとき、失礼な発言があったと思い、もう謝る言葉を先に考えていました。
自分のメンツや世間体で知恵を巡らすとき、男の子のような素直な言葉は置き去りです。それをおばあさんが気づかれて、私にも教えてくださいました。
日頃の取り繕うことに汲々とした欺瞞に充ちた我が身のこざかしさを、子どものまことの言葉が照らし出してくれました。
(機関紙「ともしび」令和4年8月号より)
仏教あれこれ
「スパイスカレー」の巻
「おうち時間」を利用し、スパイスカレーを作るようになりました。
料理も盛りつけもまったくの素人で、スパイスカレーも今まで作ったことがありませんでした。しかし、レシピを参考にチャレンジしてみたところ、自画自賛ですが初めてにしては上手にできたのです。
そして、その写真をSNSに投稿するようになってからは、どっぷりと「スパイスカレー沼」にハマり、今ではかなりの頻度で作っています。
カレーの主たる具材として、最初のころは、冷凍エビや、サバやツナの缶詰などそのまま使える食材であったり、ひき肉、きり落とし肉など比較的扱いやすい食肉をよく使っていました。
しかし次第に、鶏もも肉やむね肉など、皮を取ったり、油を除いたり、そして包丁で切ったりと、料理初心者の私にとっては、手間のかかるものにも挑戦するようになりました。
鶏肉は、ひき肉や、きり落し肉と違って大きく立体的です。縦に切ったり、横に切ったりしながら、元々の「ニワトリ」の姿を想像することもできます。
「私たちは他のいのちをいただいて生きている」
そう言いながらも、今まで料理をしていなかった私にとって、牛も豚も鶏も「食材」でしかありませんでした。しかし鶏肉を調理しながら、あらためて「いのち」をいただいて生きているという事実に向き合うことができたのです。
コロナ禍で始めたスパイスカレー作りですが、大切なことを知らされました。
(機関紙「ともしび」令和4年8月号より)