2022年7月のともしび
常照我
「SUP(サップ)で水上散歩」 撮影 西表島ウォーターマン 徳岡大之さん
ふと目にした広告に「土地の有効活用、おまかせください」とあった。梅雨時に雑草が伸び続けるあの裏庭を活用できれば、と想像をふくらます。
しかし、裏庭を活用するためコンクリートで基礎を固める。当然、そこには草花や虫、微生物など無数のいのちの営みが存在する。土地を活かすという名目で実際に活かされるのは、裏庭を住みかとするいのちではなく、人間のいのちだけなのだ。
釈尊は雨季には外出をせず、皆で一か所に定住することを定められた。雨の恵みに誘われ、這い出した小さないのちを踏み殺すことを避けるために。
釈尊の全てのいのちに対し平等な、その眼差しに触れる時。自らを活かすために、平然と他のいのちを見殺しにしている、私の傲慢さが明らかになる。
(機関紙「ともしび」令和4年7月号 「常照我」より)
親鸞聖人のことば
かなしきかなやこのごろの
和国の道俗みなともに
仏法の威儀をもととして
天地の鬼神を尊敬す
『正像末和讃』より(「佛光寺聖典」六四四頁)
【意訳】
悲しいことに、このごろの僧侶もそうでない人も、みな仏教をよりどころにしている姿をしていますが、自分の願いをかなえるために天地の神々を敬っているのです。
私たちは、常に次に起こることに期待をします。そして期待しないことが起こらないようにと祈ります。
先日ある方が、娘さんの結納が決まったと、嬉しそうにお寺に立ち寄られました。そして「どうしても見届けたいので、その日までコロナに感染しないよう、読経してくれないか」とおっしゃるのです。しかも、神社でお祓いをした帰りに……。
結納の日を無事に終えるには、出席する人、また天候等と何がどう変わるかわかりません。そして、それらを思い通りにすることはできませんので「読経はまったく関係のないことですよ」と、お伝えはしたのですが、どうしてもということで読経しました。
成果は
しばらくして「おかげさまで、無事に結納を見届けることができました」と、お礼にみえました。その言葉に私は思わず喜びました。しかし、もし結納を見届けられなかったらなどと考えている、私のいい加減なすがたが露呈したのです。
わかってはいるけれど
様々なご縁は、思い通りになりません。
私たちは、常に思い通りになるよう神仏に祈り、たまたまそうなれば善い神仏と敬い、思い通りにならなければ悪態をつきます。そして、それが常であるから「かなしきかなや」と親鸞聖人は、おっしゃったのです。
わかってはいながら、お礼の言葉に一喜一憂する私は、なんとも「かなしい」すがたです。しかしその私こそが、阿弥陀仏から「真実に目覚めよ」と願われていたのだと、親鸞聖人のご和讃から教えていただいたのでした。
(機関紙「ともしび」令和4年7月号より)
仏教あれこれ
「おばあちゃん」の巻
「おばあちゃん」という言葉、自身の祖母を指す場合と、高齢の女性全般を指す場合と、両方の用法がありますね。
物心がついたばかりの頃は、祖母は最初から「おばあちゃん」だし、お母さんよりずっと年をとっている人のことだと思っていました。でも成長していくにつれ、「おばあちゃん」にも若い時も幼い時もあったし、幼い自分もいずれ大人になり老人になると知ります。
当たり前の自然の摂理ですが、「知っている」と「受け入れている」は別物だなあと感じる機会がありました。
先日、久しぶりに実家に帰省した時のこと。母が「最近、体調がすぐれなくて…めまいがするし、腕の皮膚に湿疹ができちゃうし」とぼやいていました。そして袖をまくって腕を見せてくれたのですが、私は、口では母の体調を労いながらも、内心「わっ、いつの間にか、すっかりおばあちゃんに……」と、シワだらけの腕を見てびっくりしていたのでした。
私の中では、母は年をとったとはいえ若々しい存在であり、祖母のような「おばあちゃん」ではないと、勝手に思い込んでいたのです。でも冷静になってみれば、自分を含め同世代は皆、白髪も増え老眼を訴えるこの頃です。その親世代ならば、そりゃあ「おばあちゃん」です。
この件、老いた容貌がどうこうではなく、母は「母」であり「おばあちゃん」ではないと思っていた、自分自身の思いの強さに衝撃を受けたのです。
これでは、ましてや自分自身が老いてゆくことを受け入れる心の準備など、できていません。「生老病死を受け止めよ」なんて偉そうなこと、とても口にはできませんね、本当。
(機関紙「ともしび」令和4年7月号より)