真宗佛光寺派 本山佛光寺

2022年5月のともしび

常照我

「テーブルサンゴの群体」 撮影 西表島ウォーターマン 徳岡大之さん「テーブルサンゴの群体」 撮影 西表島ウォーターマン 徳岡大之さん

 河原の石に一つとして同じ形が無いように、私と全く同じ価値観を持つ人間など、この世の中に一人として存在しない。
 しかし、私たちは頻繁に勘違いする。私が是とすることを相手も是とし、当然受け入れられるものと。その当てが外れるところに憎しみやいかりが生まれる。日常のもめ事から、時に起こる大きな争いの着火点だ。
 以前、本山の門前に「憎しみや いかりの無い 世界をつくる ことはできないが 憎しみや いかりの止まない わたしを 知ることはできる」という標語が掲げられた。
 何度、他人とぶつかろうとも、河原の石のように角がとれ、丸くはなれない私である。その痛ましさにどうか気づいて欲しいという仏の切なる願いが、私に届いている。

  (機関紙「ともしび」令和4年5月号 「常照我」より)

 

親鸞聖人のことば

煩悩、眼を障えて
見たてまつらずと雖も、
大悲倦きこと無くして
常に我を照らしたまえりと

『正信偈』より(「佛光寺聖典」二二九頁)


【意訳】

 煩悩にすっかり覆われている私は、阿弥陀さまのはたらきかけを常にいただいているにもかかわらず、そのことに気づけないでいるのです。


 コロナ禍と言われて早二年。初期には軒並み中止になっていた演劇やコンサートなどの舞台も、だんだんと開催されるようになってきました。


三度目の正直なるか
 私が行きたかったとある公演、一昨年は中止、昨年は延期。そして今年、三度目の正直で今度こそと会場に向かう道中、開演時間のほんの二時間前のこと。「出演者のコロナ陽性が判明したため、当公演を延期させていただくこととなりました」という通知がスマホの画面に表示されたのです。休暇を取り交通手段や宿を手配し、ここまで来たのに!やりどころのない怒りと落胆が胸中に渦巻きます。
 二年前までは、ジャンルも地域も超えて舞台自体が丸ごとなくなるとは想像だにしませんでした。天災などの不慮の事態以外は、開催されて当たり前だと。

当たり前ではない
 今となっては、決して当たり前ではないと痛感します。演者、スタッフ、会場全てが無事にそろって初めて、その日の幕が上がります。企画を立て、人を集め、リハーサルを重ね、全ての段取りを整えてきたのに、突然の中止に見舞われる。主催者の側こそ「こんなはずでは」です。自分の都合で勝手に浮き沈みしていた私には、それが見えていませんでした。
 一つ一つの公演はそれに関わる多数の人の希望と努力の積み重ねです。交通機関や会場の維持も含めたら、まさしく無数の人に支えられています。そんな大いなるご縁の上に、私の当たり前が成立していると、公演中止を通して気付かされました。

  (機関紙「ともしび」令和4年5月号より)

 

仏教あれこれ

「無くて七癖…」の巻

 「小鼻の下を必ず触る、それが僕のごまかすときの特徴だって言われたけれど、ほんとかな」
 「さあ。でも最近はマスクだから触れないし、だったら、噓もばれないんじゃないか」
 「自分の癖は、自分では分かりにくいよな」
 これは、つい先日の昼休み、職場の同僚との会話。
 昔から“無くて七癖、有って四十八癖”と言われますが、自分で自覚できているものはほとんどないのでは。だから癖といえるのかもしれませんが、なかでも指摘されてもなかなか自認できないのが“考えの癖”ではないでしょうか。
 私の勤務する職場に相談業務がありますが、相談者のお話を伺うなかで、その人の考え方の傾向に気づき、我が身に重ねて自省することがよくあります。
 “○○は□□でなければならない”の思い込み、また、いつのまにかの責任転嫁や、マイナス思考に自己中も。他にも…。
 これらは程度の差はあれ、私も残らず持っている癖の数々ですが、ただ、それが堅固だと障碍となり、自分も周囲も苦しくなります。
 我執で固まった見方や考えを、たかが癖のひとつと笑うこともできれば楽なのですが、それができません。
 「結局さ、自分のことは自分で知っているようで知らんもんだよ」
 「はなから“無くて七癖”と思うのが無難かもしれんな」
 それが同僚との結論でした。
 この、自分は差し置いて批評家ぶるのも、悲しいかな、凡夫である私の癖のひとつでした。

  (機関紙「ともしび」令和4年5月号より)

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