2022年3月のともしび
常照我
「朝日の道」 撮影 西表島ウォーターマン 徳岡大之さん
三月、お彼岸になると思い出すことがある。訳もわからず連れていかれたあるお宅の彼岸参り。当時、私は小学生だった。
仏間に入ると介護ベッドが置かれ、以前はお寺へお参りする度、よく遊んでくれたおばあさんが寝ていた。
お勤めの後、「ボンちゃん、こっちおいで」と呼ばれ、小さな包み紙を握らされた。中には千円札が一枚。「また来てな」とやつれた顔で微笑まれた。以降、おばあさんと会うことなく、翌年、その訃報を父から聞いた。
今年、おばあさんの三十七回忌が勤まる。今思えば、握らされた千円札は、私にかけられた願いそのものだったのだろう。
私は今、その願いに報いることができているのか。彼の岸、お浄土へと先に歩まれた、おばあさんの面影にたずねたい。
(機関紙「ともしび」令和4年3月号 「常照我」より)
親鸞聖人のことば
尽十方無礙光の
大悲大願の海水に
煩悩の衆流帰しぬれば
智慧のうしおに一味なり
『高僧和讃』(曇鸞讃)より(「佛光寺聖典」六一〇頁)
【意訳】
阿弥陀さまの大いなる慈悲の本願の海に、あらゆる私たちの煩悩が川のように流れこむと、阿弥陀さまの智慧の海水とひとつになっていくのです。
入院している妻の見舞いから帰る、いつもの海岸道路。沈んだ気分を変えようと、車から降りて浜辺のコンクリートにゆっくりと腰を下ろすと、まだ昼間の温かさが残っています。
海を前にして
久しぶりに見る海は、忘れていたその圧倒的な広大さを突きつけてきます。波が打ち寄せ、砕ける、その永遠のようなリズムの中に座っていると、小さくかじかんでいた心が溶けていくようです。陽が沈むまで、ここにいようと決めました。
しばらくすると風が強くなり、海の色は少しずつ濃くなってきました。駐車場の車が増えて、浜に降りてくる人もいます。
やがて水平線に浮かんだ雲が、茜色に色彩を変えながら輝き出します。刻々と変わっていく海と夕陽と雲の荘厳な光景が広がり、目が離せません。
手を合わせる人
いよいよ陽が沈みます。「わー、すごいねー」と声が聞こえてきます。みんな同じ方向を向いて、日没を見つめていました。
波打ち際近くに腰を下ろしていた人影が立ち上がり、海に手を合わせているようです。名残惜しそうに残照を振り返りながら、こちらに戻ってきたのは年配の女性でした。目頭を押さえているようですが微笑んでいるようにも感じられて、思わず見送ると軽自動車に乗り込んで去って行きました。
あの人は大丈夫だ。私も大丈夫だ。力が満ちたような気持ちになって私は立ち上がりました。
私が海を見ていたのではなく、海のような大きなはたらきの世界の中に私がいて妻がいて、みんながいて、しっかり受けとめてもらっている。そのことがはっきりと今、うなずけたのです。
(機関紙「ともしび」令和4年3月号より)
仏教あれこれ
「イメージ」の巻
先日、宇治の平等院鳳凰堂に出かけました。経典のお言葉が堂内にビジュアル化されているのを見るためです。コンピューターを駆使し当時の色彩を復元してあるのです。中に入ると、大きな扉に描かれた極楽浄土の荘厳。さらに柱や天井、建築部材すべてに色彩豊かな文様などで装飾され華やかさを極めていた当時を彷彿させます。経典のお言葉をイメージした方々に敬服です。
ふと幼少の時を思い出しました。保育園の先生に「ウソつきは舌を抜かれるのよ」、「ウソついたら針千本飲まされるからね」と言われた言葉に怯えた記憶です。それは舌を抜く巨大なペンチ、また千本の針が頭の中を駆け巡ったからです。
ある時、子ども会でその話をしたところ「お坊さん、舌を抜いたら殺人罪だぞ」「針を千本なんてウソだ」との反論。思わず頷いてしまった自分が情けなく、またイメージの沸かない子どもたちに落胆しました。
想えばあの頃は、聞いた言葉や物語の場面を想像する楽しさがありました。
私は「孫悟空」が大好きで、卒園アルバムの将来の夢には、空飛ぶ雲「きんとうん」の絵が描いてあり「それを手に入れる」と記されていました。
昨今、何かにつけ知識が優先してしまい、そのものの大切さを見て感じて喜ぶことを忘れていることに愕然としました。
そんな私のすがたを、平等院の荘厳を描いた当時の人、そして幼少の自分に気づかされたのでした。
(機関紙「ともしび」令和4年3月号より)