2022年1月のともしび
常照我
「朝の陽光を浴びて」 撮影 西表島ウォーターマン 徳岡大之さん
正月遊びの一つ、「福笑い」をご存知でしょう。目隠しをして、おたふくの輪郭に目・鼻・口・耳を置き、出来上がりの顔立ちを楽しみます。おたふくの目鼻立ちには福相があるので“お多福”なのだそうです。
ところで、人は普段から自分の顔作りをしています。たとえば、わざと浮かぬ顔や大げさな表情を作ったり、何食わぬ顔をしたり作り笑いもよくします。
大人になると幼い頃に比べ、感情表出の難儀さが身にしみて分かり、また、相手に配慮もできるようになるからでしょう。
でも、人間関係がもたらす禍福の多くは、その顔作りの出来の不具合や見立て判断によっているのではないでしょうか。
さて、仏さまは、そんな煩悩の「福笑い」を、どうご覧になっておられるのでしょうか。
(機関紙「ともしび」令和4年1月号 「常照我」より)
御親教
門主 渋谷 真覚
日ごとに秋も深まり、風に揺れる木の葉も彩を深め、紅葉の美しい時節となりました。本日は御正忌報恩講に、ようこそお参りくださいました。
今日、新型コロナウイルス感染症の終息は未だ見えず、先の見えない行き詰まった社会の様々な問題に、世界中が、恐怖と不安に駆り立てられています。
心の平安を保つために、自分より弱い者を作り出す一方で、占いや厄除けが流行ったりもいたします。そして自分の都合をかなえたい欲望のために、社会全体が競い争いながら、不安を取り除こうとしがちです。
親鸞聖人は占いや厄除けが日々、当たり前に行われていた時代にあって、
かなしきかなやこのごろの
和国の道俗みなともに
仏教の威儀をもととして
天地の鬼神を尊敬す
と『正像末和讃』に詠まれました。
悲しい事に私たちは、仏教徒と言いながら、他に心を移し、目先の幸福を求め、よりよい生活を求めたいと懸命に生きています。その姿を親鸞聖人は「天地の鬼神を尊敬す」とお示しくだされたのでありましょう。
そして親鸞聖人は、そういう私どもをこそ、どのような時代になろうとも、どのような状況に墜ちようとも、必ず救うと誓われたのが阿弥陀如来のご本願ですとお教え下さいました。
だれもが辛く苦しいこの現実を生きています。それは今も昔も変わりません。しかし阿弥陀如来はいつでも常に私たちに寄り添い、苦しみの声を静かに聞いてくださっています。
たとえ私たちが天地の鬼神を利用しようとも、占いや厄除けに頼ろうとしたとしても、阿弥陀如来はそのような私たちを大悲して、そのことをもご縁に、ただただお念仏申す身となって下さいと願っておられます。
令和五年に執り行われる慶讃法会のスローガンは「大悲に生きる人とあう 願いに生きる人となる」です。大悲とは阿弥陀如来の衆生を救わんとする広大なお心をいいます。
そのお心を現に生きてこられた方が釈尊であり七高僧であり親鸞聖人、そして我々の身近な方々であります。その方々のお心がお念仏とともに私たちのもとに届けられています。思い通りにならない生活を占いや厄除けに逃げるのではなく、大悲の誓願に生きる生活として、今をどう頂くのか。
私自身も順風満帆とはいかない、躓く事の多い日々ですが、お念仏を申し、お念仏の教えを聴聞しながら、阿弥陀如来の大悲の中にお育て頂く私を見つけては、喜び味わい歩ませていただいております。その歩みの中で、皆様と共に仏徳讃嘆させて頂きたいと願うところです。
本日はようこそお参りくださいました。
年頭のご挨拶
宗務総長 八木 浄顯
新年を迎え、ご家族お揃いで新たな歩みを始められたこと、心からお慶び申し上げます。
世界的な規模での新型コロナウイルス感染症の拡大より二年。徐々にではありますが、通常の生活に戻りつつありますが、マスク生活が常態化し、第六波の感染を恐れての生活が続きます。
そのような状況ではありますが、明年は「慶讃法会」宗祖親鸞聖人御誕生八五〇年・立教開宗八〇〇年・聖徳太子一四〇〇回忌・第三十三代真覚門主伝灯奉告法要をお迎えいたします。
本山ではいよいよ「慶讃法会」の団体参拝の受付準備をいたします。真宗十派でも勤まりますが、佛光寺では新たに佛光寺の法灯を継承されたお慶びを阿弥陀如来様にご奉告される伝灯奉告法要をお勤めいたします。
基本理念「大悲に生きる人とあう 願いに生きる人となる」と掲げましたように、親鸞聖人は法然上人にお出遇いになり、感動をもって「雑行を捨てて本願に帰す」と述べられ、如来の願いに生きられました。爾来その感動は先徳に受け継がれ、この度、真覚門主に受け継がれるご縁に遇わせていただくのが慶讃法会であります。本願とは「摂取不捨」、一切の生きとし生きるものすべてをもらさず救う、大悲のおこころです。
昨年の御正忌報恩講において、真覚ご門主は『正像末和讃』
かなしきかなやこのごろの
和国の道俗みなともに
仏教の威儀をもととして
天地の鬼神を尊敬す
をお引きになりました。
コロナ禍にあって、すべての人が目に見えないコロナウイルスによる感染症を恐れ、感染拡大が収束することを願いました。恐れにより人間性を失い、感染した人に限らず、医療に関わる人をも差別し排除することが横行しました。差別やいじめは他人事ではありません。思うようにならない時こそ人間性が問われているのです。
思い通りにしてあげようと、宗教の名のもとの占いや祈祷に走ることは昔から行われてきました。お釈迦さまは因縁果の道理を説かれ、それに反すること、真理に反することを厳しく戒められました。親鸞聖人の流れをいただく門徒も、疫病・天変地異による現実の苦悩を背負いながら、如来大悲の恩徳に、身を粉にして報じていかれたのです。まさしく聞法の日暮らしによって得られることであります。
今、私たちの周りには、生活するため、楽を得るためには、人を傷つけてもお金さえ手に入れば何をしてもよい、自分だけがよければそれでいいという風潮があります。そのような中で、大悲に生き、如来の願いに生きる人間の精神を取り戻し、人生を問い直すことを、「慶讃法会」の基本理念としました。
今年も「慶讃法会」円成に向けて諸準備を進め、宗祖親鸞聖人のみ教えを次の世代に伝承すべく歩んでまいりますのでよろしくお願い申し上げます。
仏教あれこれ
「ラベルレス飲料」の巻
先日、本山佛光寺の会議中にいただいたペットボトルのお茶を見て不思議に思いました。
テーブル上に並んだ全てのペットボトルにはラベルが巻かれていません。パッと見て、どのメーカーのお茶かを知ることができないのです。
少し調べたところ、これはラベルレス飲料と呼ばれ、近年、多くの飲料メーカーから発売されているようです。昨年、スーパーやコンビニのレジ袋が有料化されたのと同じく、少しでもプラスチックゴミを減らすことで、地球の環境破壊を防ぐ活動の一環なのだと説明がありました。
確かに最近ではより一層、ゴミの分別が細かく厳しくなっています。ゴミ出しをする際、ペットボトルからラベルをはがす手間がはぶけるのは良いことのようにも思います。
しかし、ここまで私たちが地球の環境について、細かく考えなくてはならなくなった主な原因は、当然私たち人間の営みにあります。
いま地球上の人口は約78億人。数え方にもよりますが、これを地球上の動物や昆虫、植物、微生物など全生物の総数で割ると、人間の占める割合はたったの0.01%だと聞きました。
「たった0.01%に過ぎない人間のせいで……」
「ラベルレスもいいけど、そのとどまることない欲望を、少しでもレスしてくれれば……」
という、数えきれない命の嘆きと、願いの声が聞こえてきそうです。
(機関紙「ともしび」令和4年1月号より)