2021年12月のともしび
常照我
「移り行く朝の景色」 撮影 西表島ウォーターマン 徳岡大之さん
除夜の鐘の段取りをご門徒さんとしていたときのことです。「毎日の鐘の音を聞くのが楽しみ」という話になりました。
一日の暮れどきに聞こえる鐘の音は、自然の風物のように生活に溶け込んでいて、しかも風情があるという趣旨でした。
そんなふうに言ってくださってとてもうれしくなりました。
でも、続けて「さて今日の鐘は、住職か坊守かと思いながら聞いています」と言われたとき、とっさに「どっちの撞き方がいいと思っているのだろう」と気になる自分がそこにいました。
梵鐘の音色にさえ、良く思われたいという我欲が起こる煩悩の深さを思い知らされます。
コロナ禍であり、例年のかたちでの除夜の鐘は難しいですが、ぜひご門徒の皆さんとともに百八の音を響かせたいです。
(機関紙「ともしび」令和3年12月号 「常照我」より)
親鸞聖人のことば
善悪のふたつ、
惣じてもって
存知せざるなり。
『歎異抄』より(「佛光寺聖典」八一〇頁)
【意訳】
何が善であるか悪であるか、私はまったく知らない。
お参りに伺ったご門徒さん宅で聞いた話です。
犯罪?
その方が小学生の時のこと。遠足で、市指定文化財のお寺へ。帰る時間になっても集合場所に来ない生徒が数人いたので、先生は「先に帰ります」とチョークで伝言を残しました。書いた場所は、山門の柱。
えー!それ、犯罪ですから。文化財への落書きは逮捕されますよー。というか、先に帰る?と思いますが、70年前はそれが普通だったというから驚きです。
変わる
さて、「何が善であるか悪であるか、私はまったく知らない」という親鸞聖人のお言葉は、自分という個人にとどまらず、社会の価値基準や常識も、都合や状況、また時代や場所によって、簡単に変わってしまうという事実に立っています。例えば、たった70年で、犯罪かどうかでさえも変わってしまうように。だから、何が本当に善で、何が本当に悪であるかは、判断することができないのです。
けれども、実際はどうでしょうか?私たちは、あらゆることに対して善悪、損得、好き嫌いと、判断をします。それがダメなのではありませんが、その判断を正しいものとして疑わず、時に価値観や意見の違う人を排除します。そして、そのことに気づいていません。
真実であるお念仏に出遇い、「私の常識や価値観は本当に正しいのか?」と立ち止まることで、真実たりえない自分自身がはっきりしたからこそ、親鸞聖人は「私はまったく知らない」と仰ったのではないでしょうか。では、私はどういう基準でお念仏をいただいているのか?我が身を顧みると同時に、恥ずかしい思いがしました。
(機関紙「ともしび」令和3年12月号より)
仏教あれこれ
「捕らぬ狸の…」の巻
若い頃に勤めていた会社での話です。とても小規模な会社でしたので、賞与が出るか出ないかは直前までわからない、支給日は毎回まちまち、金額も業績次第でまちまち、結局出ないことのほうが多かった、という状態でした。出るか出ないかは、毎回社長が直々に発表していました。
ある時、社長が「この一年間は大変厳しい状況で、前回の夏と冬はボーナスを支給できなかったが、今回は何とかなりそうだ。来週末に支給できる見込みだ」と発表しました。浮きたつ社員一同。
ところが週末をはさんで翌週、「資金繰りの都合上、一旦保留にさせてほしい。前向きに検討はしている」とトーンダウン。全体のモチベーションもシューンと下がりましたが、特にズーンと落ち込む一群が。いわく、「出るっていうから、浮かれて週末に大きな買い物してきちゃったよ!出なかったらどうしてくれるんだよ、社長!」と。
実は、私もその「期待値だけで先走っちゃった組」の一人で、サーっと血の気が引いたことを思い出します。
その時、ふと思いました。考えてみれば、実際にはまだお金を手にしたわけではなかったのに。自分勝手にあてにして、どうしてくれると怒り悩み、一喜一憂、不安でいっぱい。
自分にとって都合が良いことも悪いことも起きるのが人生です。大事なのは、起こった事実を受けとめる、私のあり方。
この時、都合の悪いことが起きると、愚痴や怒りに振り回される自分というものに気づかされました。「こ、これが『凡夫』ということ?」と、当時まだ聞き始めたばかりの仏の教えの言葉を我が身に引き当ててみた、初々しい(?)思い出です。
(機関紙「ともしび」令和3年12月号より)