2021年5月のともしび
常照我
「マングローブ」 撮影 西表島ウォーターマン 徳岡大之さん
ウィズコロナ(コロナと共存)という語が広まってほぼ一年。
感染拡大の鎮まりは今もってみられませんが、一方で、マスク着用の習慣化や三密回避、テレワークなど、感染防止の新しい生活様式はずいぶんと浸透してきたのではと思います。
でも、このウィズコロナの一番肝心なことは、尽きることのない苦悩を生む生死の事実に、一人ひとりがしっかりと向き合うことではないかと思います。
行動や生活の様式を変えることは、服装を着替えるように簡単なことでなく、決して外見だけの問題ではないはずです。
私たちの心の糧となる「生の依って立つ処、死の帰する処」(金子大榮)を改めて問い直してみることが、ウィズコロナを生きる一大事なのだといえるのではないでしょうか。
(機関紙「ともしび」令和3年5月号 「常照我」より)
親鸞聖人のことば
男女貴賤ことごとく
弥陀の名号称するに
行住座臥もえらばれず
時処諸縁もさわりなし
『高僧和讃』(源信讃)より(「佛光寺聖典」六二〇頁)
【意訳】
阿弥陀さまの名を称えることは、どのような状況におかれているか選ばず、時、場所、縁も障りになりません。どのような生き方をしていても、阿弥陀さまの救いはあるのです。
昨年から様々なことが中止になり、「こんなはずではなかった」との思いに包まれている方も、多いのではないでしょうか。
私の理想の世界
さて先日、ある取材を受けました。「仏教者として、思い描く世界とは?このような世になればいいなという思いは?」と聞かれた私は、思わず「恐ろしい!」と言ってしまいました。なぜなら、私が思い描く理想の世界は、私にとっては都合のいい世界でも、他者にとって、いい世界とは限らないからです。親切でしたことが迷惑になってしまうように、「よかれと思って」他者を傷付けることもあるのです。
残念なことですが、私の理想の世界は、私の欲や私が思う正義に満たされた世界。ハッキリ言って、私の極楽、他人の地獄です。
仏の願いの世界
そもそも仏教が説く救いは、「このような世界になれば」とか、「このような人になって」とかの条件付けが一切ない救いです。この身、このまま、今、ここでの私たちの救いを、法蔵菩薩は願い、阿弥陀という仏になって成就してくださったのです。だからお念仏も、私たちがどういう状況にいるのか、時も、場所も、縁も選ばないと親鸞聖人は詠われるのです。男も女も、老いも若きも、健康な者も病気の者もです。病床に臥しているのなら、そのままでいいのです。仏を念じるお念仏を称えることで、今、ここでの救いがあることに、気づかされ続けていく。それは、「こんなはずではなかった」という不安な状況のただ中にいる私たちを照らす光です。
今、ここに、救いはあると知らされることで、開かれる世界があるのです。
(機関紙「ともしび」令和3年5月号より)
仏教あれこれ
「不老長寿の仙経」の巻
この一年、めっきり体力が落ちてきてしまいました。最初は、コロナ禍で運動不足になったせいかと思いましたが、どうもそれだけではなさそうです。本を読むにも、文字がぼやけて見えずらい、骨のある大著を読もうとすると、目が上滑りして理解に労力と時間がかかる。
こ、これは老化では…と焦りを感じた時、七高僧のお一人、曇鸞大師の逸話が思い浮かびました。
曇鸞大師は、すぐれた学僧で大乗仏教を深く学んでおられましたが、五十歳を超えた頃に病に臥し、思うように仏典の研究が進まなくなりました。それで、不老長寿の仙術を求めたのです。しかし仙経を持ち帰る途中、菩提流支三蔵から『観無量寿経』を授けられ、不老長寿を求める己の迷いの深さに気づかされ、浄土の教えに帰依されたのでした。
この時に仙経を焼き捨てたというエピソードが『正信偈』にありますが、以前は、実のところ、ピンと来ていませんでした。
しかし、自分も老化が始まり、若い頃のようにはいかないことを実感してみると、大きな不安に襲われ、不老長寿を求める気持ちが身をもって分かりました。せめて今の体力を維持したいと焦りを感じたり、若い頃にもっと仏典を深く学んでおけば良かったと悔やんでみたり。
いやいや、待てよ。難しい経典を知っていることが大事なのではない、お念仏ひとつで助かるのだという教えを聞いてきているはずなのに。聞いてるつもりで上滑り、身についてはいなかったかと、改めて身につまされたのでした。
(機関紙「ともしび」令和3年5月号より)