2021年4月のともしび
常照我
西表島「中野ビーチ沖」 撮影 西表島ウォーターマン 徳岡大之さん
「氷が溶けたら何になる?」
これは小学四年の理科の問題です。水の状態は温度変化で固体・液体・気体と変わることを子どもたちは学習します。そして水では、融点は0℃、沸点は100℃という知識を得ます。
さて、親鸞聖人はご和讃に、「無碍光の利益より/威徳広大の信をえて/かならず煩悩のこおりとけ/すなわち菩提のみずとなる」と、迷いを氷に、さとりを水にたとえておられますが、私は、これまでその中身を本当に味わえていたのかが心もとなくなりました。単なる言葉の知識理解にとどまっていたのではないのか、春光のような信心の温かさや明るさを、はたして感受できていたのか、と。
冒頭の問題に「水」とせず、「春」と答えた子の感性に驚いて、自問させられるのです。
(機関紙「ともしび」令和3年4月号 「常照我」より)
親鸞聖人のことば
無慚無愧のこの身にて
まことのこころはなけれども
弥陀の回向の御名なれば
功徳は十方にみちたもう
『正像末和讃』より(「佛光寺聖典」六四三頁)
【意訳】
恥じる心も、まことの心もないわが身であるけれど、阿弥陀仏から回向される御名により、その功徳はあらゆるところに満たされるのです。
昨今、新型コロナウイルスの影響で失職者が増加しています。近所では解雇になり、手に入れてまもない新居を手放す人もいました。
甚大なことを軽微に
ある時、友人から「お前はいいよな。俺はいつ雇止めになるかわからなくて不安なんだ」と、涙ながらに訴えられました。その声を聞いた時、日々不安な気持ちでいる友人を心配することもなかった私に気づかされました。
それは毎日、報道番組等を意識して見ていながら、失職者の増減を数字で判断し、軽微に見ていたのです。
無慚無愧のこの身にて
経典に「慚愧」とは、自身に羞じ、天に羞じる心と教えられています。
私は慚愧を、社会問題の原因に私が関わっていたことに気づき、恥じることだと思っていました。しかし問題の表面を知るだけで、その影響で苦しんでいる人を数字化し他人事としていたのです。
そんな私に聞こえてきた言葉が、「無慚無愧のこの身にて」さらに「まことのこころはなけれども」と、自身を表白された、親鸞聖人のご和讃でした。
私には、慚愧の心が少しはあると思っていました。ところが、まことの心がないと知らされたのです。しかし、「なけれども」という言葉が添えられているように、南無阿弥陀仏の教えにより、真実の私のすがたに出遇えたのです。
しかし、それでも恥じる心が起きてこない、仏教に出遇えた喜びすら起きてこないのです。そうであるからこそ、南無阿弥陀仏にすくわれる存在だということが、より明らかになったのでした。
それは私を導いてくれている先人方のご縁で、仏法をたずねていく歩みがあったから出遇えたのです。
(機関紙「ともしび」令和3年4月号より)
仏教あれこれ
「仏教を使う」の巻
『ともしび』の編集委員になって、変わったこと。それは、言葉に敏感になったことです。言葉の使い方や表現方法だけでなく、見るもの、聞くものが、気になるのです。それはまるでセンサーです。自分でも気づかない内に、四六時中、仏教的な言葉の気配を探しているのです。テレビから聞こえてくる言葉、新聞の文字、それらの中に少しでも仏教を感じると、メモをとります。
たとえば昨年話題になった映画、「鬼滅の刃」。登場人物の言葉が、そのセンサーに引っ掛かりました。それは、「老いることも死ぬことも、人間という儚い生き物の美しさだ。老いるからこそ、死ぬからこそ、たまらなく愛おしく尊いのだ」です。いい言葉です。沁みます。私は予告編をネットで探し、繰り返し見ては、言葉を書き取りました。老いや死を否定的に受け止めるのではなく、事実として向き合う姿は、正に仏教!メモをした私は大満足。そうして書き溜めた言葉を手掛かりに、『ともしび』の原稿を書くのです。
さて先日のことです、僧侶仲間がたいそうご立腹。会議で自分の意見が通らなかった、お坊さん。「僕が言う事は正しい。なぜなら、経典の言葉に裏付けされてる!」と言ったというのです。友人いわく、「仏教の教えを、自分の正当性を主張するために使ったらダメだよね」と。そうだねといいながら、ドキッとしました。他でもない私自身が、いい言葉はないかと仏教の言葉を探し、使っていたのです。否!今も、使っているのです。はぁと、ため息がでます。
(機関紙「ともしび」令和3年4月号より)