2021年3月のともしび
常照我
「西表島の朝焼け」 撮影 西表島ウォーターマン 徳岡大之さん
届いた同窓会の案内を眺めるうちに、若かりし中学時代の思い出が次々と思い出されてきました。また、母校の校歌や卒業式に歌った『蛍の光』が自然と口をついて出てきました。
還暦をとうに過ぎると「同窓」は特に有り難いです。文字通りに同じ窓から同じ景色を眺めた仲間、それが「同窓」という意味でしょうが、何にせよ、懐かしい過去を共有する友人がいることは幸せなことです。
それと同じく、「御同朋」という言葉もまた、私たち真宗門徒にとって特別な意味をもつといえます。お念仏に感謝し、共に今を喜ぶ同行の朋が傍にいてくれるのはうれしいことです。
その「御同朋」と共有している景色は、「同窓」が過去であるならば、未来といえるのではないでしょうか。
(機関紙「ともしび」令和3年3月号 「常照我」より)
親鸞聖人のことば
善悪の字しりがおは
おおそらごとのかたちなり
『正像末和讃』より(「佛光寺聖典」六四八頁)
【意訳】
善と悪とを、さも分かったような顔で分別しているのは、とても虚しいすがたです。
「その君の姿こそ、善悪の字しりがおではないですか?」
かつて、研修会に参加する中で、先生から投げかけられた言葉です。
顔から火が
その研修会は私にとって、初めて法話を勉強する機会でした。事前に作成した法話原稿を先生へと送り、添削してもらいます。その原稿を再度練り直し、研修会にて実際に話すのです。
研修会まであと一か月足らず。原稿が未完成だった私は、以前に参加した聞法会で聞いたあるお話を、自分の法話原稿へとそのまま拝借しました。
原稿を先生へと送った数日後、添削された原稿が返ってきました。恐る恐る見ると、数行にだけ太い赤線が引かれています。それは、私が聞いたお話を拝借した箇所でした。
そして赤線の下には、「このような話で、仏様と私たちの関係を上手いこと言ってやろうとする、その君の姿こそ……」とのコメントが。実はその法話原稿は、上記の親鸞聖人のことばを主題として作成したものだったのです。コメントを読んだ途端、顔から火の出る思いがしました。
虚しい姿
教えが私にまで至り届く。その背景には、私のありのままの姿を明らかにし、そのままの私を救おうとする仏様の願いがあります。自分の法話に使えるか否か、良い話か否か、面白いか否かと、まるで審査員顔で聴聞する。その私こそ、至り届いた教えも、かけられた願いも無駄なものとしてしまう、虚しい姿そのものなのでしょう。
その善悪の字しりがおに他ならない私でさえ、諦めずに照らし出そうと、仏様は常にはたらき続けてくださるのです。
(機関紙「ともしび」令和3年3月号より)
仏教あれこれ
「味噌汁記念日」の巻
孫の離乳食がようやく終わりました。はじめての子どもなので、親はスマホでいろいろ調べては、毎日野菜やご飯をすりつぶして大変だったようです。少しずつ大人と同じ食べ物を口にするようになってからのこと。夕ご飯のときに、味噌汁をすするなり孫がいきなり「これ、おいしいねー」とさけびました。
いつもと変わらぬはずの、ふつうの味噌汁。大人より少し薄めた味、具は玉ねぎとじゃがいもでした。さらに一口、孫は目をまん丸にして、みんなに同意を求めるのです。「おかあさん、おいしいねー」「おとうさん、おいしいねー」「おじいちゃん、おいしいねー」
みんな思わず、あらためて味噌汁をゆっくりと味わいました。旬の玉ねぎとじゃがいも。ついさっきまで何も気づいていなかったのに、ゆっくりと味わうと、ああ確かにおいしい。
みんなニコニコして「おいしいねー」とうなずきました。孫の味噌汁感動記念日です。
そしてこの日は、毎日いっしょに夕食をいただきながら、孫に言われるまで何も気づかず、味わわずにいたわたしへの、孫からのダメ出し記念日。
そうだよね、味噌汁だけじゃない。毎日、朝起きて空をあおいで、木々の緑を見る。深呼吸をして外を歩く。大切な人たちと出あって語り合う。
……そのことを当たり前にしか感じなくなっている鈍感なわたし。
子どもはすごい!毎日が新しい感動の中にある孫のすがたが、まぶしくなります。折にふれ、わたしは心の中で孫に手をあわせているのです。
(機関紙「ともしび」令和3年3月号より)