2020年12月のともしび
常照我
「徳島県祖谷渓付近」 撮影 藤末 光紹氏
罠にかかったツルを助けたおじいさん。そのツルが娘となり、布を織って恩返しする『ツルの恩返し』。正体を知られたツルは空へと飛び立ったのでした。
この話には後日談をかたった小話があります。
また罠にかかった鳥を助けたおじいさん。娘を心待ちにしていると、案の定やって来て布を織るため隣の部屋へ。しかし翌日、その部屋が静まり返っているのを不思議に思い、覗いてみると、家財道具が一切合切なくなっていたのでした。
「だまされた。詐欺だ」。実は、おじいさんが助けた鳥というのはサギだったのでした……。
最初は親切心からだったのが、いつしか恩返しを期待してしまう。後日談はそんなおじいさんの、いや私の姿を教えてくれているのでしょうか。
(機関紙「ともしび」令和2年12月号 「常照我」より)
親鸞聖人のことば
大悲の願船に乗じて、
光明の広海に浮かびぬれば、
至徳の風静かに、衆禍の波転ず。
『顕浄土真実教行証文類』より(「佛光寺聖典」二一六頁)
【意訳】
阿弥陀さまの大悲の船に乗り、光のはたらきに満ちた広い海に浮かぶならば、阿弥陀さまのまことの心より起こされる風が、すべての禍の波を静かに転ずるのです。
今年の三月初め、私は高速道路を使い、車で京都へと急いでいました。
うどんが気管に
昼食をとっていなかった私は、途中サービスエリアに立ち寄りました。うどんを注文し、ひとくちすすると、ズルッ、ゴホッ、ゲホッ、ゴホッ、ゴホ、ゲホ、ゴホッ……。「うどんが気管に……」と、ひとり言い訳することもできず、咳き込み続けました。
新型コロナウイルスの感染が広まりつつあった当時。賑わっていた店内は静まり、隣のおじさんは明らかに私から顔を背けています。もし私なら思わず席を立ち、苦しむ誰かから距離をとっていたかもしれません。
一方で、私たちが新型コロナウイルスを知る以前であったなら、どうでしょうか。もし隣で咳き込み苦しそうにしている人がいたら、「大丈夫ですか」と心配し、その苦しみに少しでも寄り添うことができていたかもしれません。
柔らかな風
大悲とは、共に悲しみ苦しむことで、すべての人を救いたいという阿弥陀さまの願いです。
新型コロナウイルスに翻弄され続けたこの一年。私たちはその日常の中で様々なことを諦めてきました。その一方で、実は諦めてはならないものまで、諦めてしまってはいないだろうか、と思うのです。感染を恐れるあまり、隣の人の苦しみを思う気持ちさえ起ってこなくとも、コロナだからしようがない、と。
阿弥陀さまの光明は、自ら禍を作りだす私の悲しい姿を照らし出します。そして、阿弥陀さまの大悲から流れる柔らかな風は、諦めてはならない大切なことを、その風に触れる私に気づかせてくれるのです。
(機関紙「ともしび」令和2年12月号より)
仏教あれこれ
「ローストビーフサンドイッチ」の巻
お参りの途中で、外食をしなければいけなかった日のことです。京都駅近くの地下街で、僧侶の恰好での一人の食事。人の目もありますから、どこでもいいという訳にはいきません。豚カツ、牛丼、寿司、この辺りは先ずダメでしょう。かといって、精進料理のお店があるわけでもなく、無難なところでと、喫茶店に入りました。
メニューを開くと目に飛び込んできたのが、本日のおススメと書かれたローストビーフサンドイッチ。お値段も手頃です。歩き回って疲れ切っていたうえに、この後もご門徒さんのお宅にお参りに行きます。ここは肉でも食べて力をつけたいところですが、注文をする勇気も、公衆の面前で肉を食べる度胸もありません。仕方なく、野菜サンドイッチを選びました。「本当は肉を食べたかったのに…」と、行き場のない不満を抱えながら口に運んでいると、法衣姿のお坊さんが入って来られました。
私から見える席に座ったその方は、事もなげに「ローストビーフサンド!」と注文したのです。「え!いいの?」と驚く私の気持ちを知ってか、知らでか、運ばれてきたそれに、美味しそうにかぶりつきます。
あまりにも潔い行動に驚くと共に、他人の目ばかりを気にしていた自分が恥ずかしくなりました。なぜなら私は、信仰や信念から肉を食べなかったのではなく、ただ単に他人からの評価を、気にしていたにすぎなかったからです。
他人の目に振り回されて…と思いますが、実は、他人を気にする自分の思いに縛られていたんですね、きっと。
(機関紙「ともしび」令和2年12月号より)