2020年11月のともしび
常照我
「雨天に映えるもみじ葉」 撮影 藤末 光紹氏
助けたカメに連れられて龍宮城にやって来た浦島太郎。乙姫のごちそうや、もてなしに月日の経つのも忘れていました。しかし、ふと両親や故郷のことが気になり戻ると、とてつもなく長い時間が過ぎていたのでした。
失意のあまり「開けてはいけない」という乙姫との約束を破って玉手箱を開けると、あっという間に白髪のおじいさんに。
目の前にある快楽に溺れ、大切なものを見失って龍宮城で暮らした浦島太郎。玉手箱の中に詰まっていたのは「虚しく過ごした時間」だったのでしょう。
一方、立派な家に住み、美味しいものを食べ、もてはやされることを幸せとし、そのためなら、なりふり構わぬ人間。
私たちが持っている玉手箱にも「空しく過ごした時間」が入ってはいませんか?
(機関紙「ともしび」令和2年11月号 「常照我」より)
親鸞聖人のことば
一切の有情は、みなもって
世々生々の父母兄弟なり。
『歎異抄』より(「佛光寺聖典」七九四頁)
【意訳】
一切の生きとし生けるものは、すべてはるか昔から今に至るまで、深いいのちの歴史の中で父母兄弟のように互いに深くつながりあっているのです。
一切のいのちあるものがみな父母兄弟って……実感できないなあ、と思ってしまいます。
理科室で顕微鏡
小学生の理科の時間、顕微鏡でゾウリムシを拡大して見るとプレパラートの上で少しずつ動いているようでした。
その時、先生が「ゾウリムシのまわりには細かい毛がいっぱい生えていて、その動きでゾウリムシは移動しているんだ。そしてその毛は、みんなの喉の奥にも同じようにあるんだよ」と教えてくれました。
みんな「エーッ!」と大騒ぎです。「こんなゾウリムシと自分がいっしょなんてヤダー!」
理科室の薬品のにおいと、その時の先生のニッコリした顔をなつかしく思い出します。
生命科学の教えからも
それからだいぶ経って生命科学者の中村桂子さんの著作を読んだときに、同じことが書かれていて驚きました。単細胞生物のゾウリムシの繊毛と私たちの喉や気管の繊毛は同じもの。
生きものは人間を含め、すべて三十八億年ほど前に生まれた祖先を共有する、仲間であること。地球上の生物すべてが細胞でできており、そこには必ずDNAがあるという共通性がわかって、これまでの人間を中心にした考え方から、共に生きる生命観へと転換されてきました。
それは親鸞聖人がおっしゃった、あらゆるいのちは「世々生々の父母兄弟」だということの再発見です。共に生きてきたすべてのいのちの歴史の中に、わたしがご縁をいただいて生まれ出てきたことに、感動を持って生きる道。いのちの背景を忘れて生きているわたしに、深きいのちに目覚めよ、という願いが響いてきます。
(機関紙「ともしび」令和2年11月号より)
仏教あれこれ
「予期せぬ出あい」の巻
今年は、大人数で集まることが難しくなり、様々な場面でオンライン化が加速しました。ネット通販が盛況となり、仕事はテレワークにオンライン会議、大学はネット授業、お寺でもオンライン法話を推進。
オンラインなら、遠方に出かけずに済むので効率的ですし、家庭環境や時間に制約がある場合は助かります。一方で、想定外の出あいが減る落とし穴も。
個人的にそれを感じたのが、良書とのめぐりあいです。
「店内を長時間ブラブラする」「買うかどうかわからない商品をあれこれ手に取る」という行為を慎むべき状況となり、書店の棚を物色して回るお気に入りの時間から、しばらく遠ざかっていました。先日、久しぶりに大型書店に出向き、何とはなく書棚をめぐると、何もかもが新鮮で、予期せぬ出あいの数々に、内心、興奮がおさまりませんでした。
探しものはネットでキーワード検索できますし、オンラインショップでは「××を買った方にはこれもオススメ」と次々と選択肢が提示されます。でもそれは、自分が選んだか、過去の行動履歴に基づいた推奨品。予期せぬめぐりあいは起こりにくいのです。
「あう」には「会う」以外にも複数の漢字があり、「遇う」は「奇遇」のように、たまたまの出あいに使われます。
仏法との出あいを「出遇う」と書きますが、これは、私の思いや努力で出会うものではなく、ご縁によって思いがけずにいただくものだからです。オンライン化が進んでも、この「出遇い」は失われませんように。
(機関紙「ともしび」令和2年11月号より)