真宗佛光寺派 本山佛光寺

2020年10月のともしび

常照我

「東京タワー」 撮影 藤末 光紹氏「東京タワー」 撮影 藤末 光紹氏

 「愚か者には見えない布で作った服」。職人の振りした詐欺師の言葉に、王様も家来も「見えない」とは言えませんでした。
 この服を着てのパレード当日、街中の人々もほめたたえるよりほかありません。ところが一人の子どもが「王様、裸だよ」と。その言葉がどんどん伝わり、ついには皆が本当に「裸」だったのだと腑に落ちたのでした。もちろん王様も家来も。
 状況次第では自分のために平気でウソをつく大人。それに対して、純粋な子どもの発した真実の言葉が、本当の「愚かさ」を大人に気づかせたのでした。
 「愚かさ」を認めることは難しいことです。なぜなら、その事実に目を背けたいから。
 その証拠に、王様は行進を続け、家来はありもしない服の裾を持ち続けたのでした。

  (機関紙「ともしび」令和2年10月号 「常照我」より)

 

親鸞聖人のことば

弥陀の誓願は
無明長夜のおおきなるともしびなり

『尊号真像銘文』より(「佛光寺聖典」五二六頁)


【意訳】

 阿弥陀如来の誓願は私たちの煩悩の闇に真実の明るさをもたらす大きな智慧と慈悲の光です。


 半世紀も前の思い出です。
 私の家は田舎なので、夏の夜には、居間の蛍光灯をめがけて蛾やカナブンがよく飛んで来ていました。どこから入ってくるのか不思議でしたが、それを捕まえて外に出すのが子どもの私の仕事でした。


人工光の恩恵
 現在、私たちは豊かで便利な暮らしを手に入れました。家の照明も思いのままにできます。家の内も外も、昔に比べて格段に明るくなりました。
 でも最近、明かりに釣られ居間に飛び入ってくる虫はいなく、また、LED街灯には群がる虫も見かけなくなりました。
 もしかしたら人工光というのは、人間だけが恩恵を受ける光と言えるのかもしれません。

無明長夜を照らす
 今や、人工光の煌煌たる光はほぼ日本列島全体を輝かせ、列島の輪郭は夜でも宇宙から見えるそうです。毎夜、とてつもなく莫大な量の電力が消費され続けているのでしょう。
 連夜、膨大なエネルギーで煌煌と輝く様子こそ、まさに心の闇である「無明長夜」を表しているのではないでしょうか。
 そのまばゆいばかりの輝きには、私たち一人ひとりの人間の欲や驕りも同時に込められているように思います。
 私たちの生活に明かりは重要です。でも、生きるうえで大切なのは、私たちの心の暗闇を照らす灯りです。
 外見のあまりにまばゆい輝きに目を奪われて、私たちは、心を照らしてくださるみ光を見失ってきたように思います。
 その「無明長夜」といえる私たちを照らしてくださる灯りこそ、阿弥陀さまの大きな智慧と慈悲のみ光なのです。

  (機関紙「ともしび」令和2年10月号より)

 

仏教あれこれ

「誕生日おめでとう!」の巻

三歳の孫がいます。
 刻々と新しいことを覚えて、毎日いろいろなおどろきや、かなしみや、よろこびを積み重ねているちいさな孫。
 おとなのすることをよく見ていて、すぐにまねをするので、油断できなくなりました。洗濯物を両手でかかえた母親がドアを足で閉めると、すぐに学んでドアをキックです。
 先日わたしの誕生日に、初めてビールの栓を抜いて、乾杯の音頭を取ってくれました。「おじいちゃん、誕生日おめでとう!」
 スポン、と栓を抜く面白さを覚えた孫はその日以来、夕食前にわたしのためにビールの栓を抜くのが日課になりました。そしてわたしも毎晩ビールを飲むのが日課に……。
 「おじいちゃん、誕生日おめでとう!」三日たっても一週間たっても、孫は毎晩さけぶのです。家族はみな苦笑しているのですが、わたしはうれしい。やめてほしくない。
 もう誕生日は過ぎたよ、とは教えません。毎晩その声を聞くたびに、心があたたかくなるのです。元気になるのです。
 毎日が誕生日……どこかで聞いたような気がします。一日一日が、わたしが新たに出遇ういのちの誕生日。
 感動することなしに、つい昨日と同じ今日だと生きてしまうわたしの毎日。
 「おじいちゃん、誕生日おめでとう!」今日もちいさな孫がさけぶ声から、すんなりと教えられました。
 そうだった。今日もきみと出遇えた大事な新しいいのちの誕生日。

  (機関紙「ともしび」令和2年10月号より)

このホームページは「本山佛光寺」が運営しています。ホームページに掲載されている画像の転用については一切禁止いたします。また文章の転載についてはご連絡をお願いします。

ページの先頭へ