真宗佛光寺派 本山佛光寺

2020年8月のともしび

常照我

撮影 藤末 光紹氏撮影 藤末 光紹氏

 ヤシの木がそびえ、極楽鳥がさえずる島で、踊ったり、歌ったり、穏やかに暮らす鬼。
 私たちがもつ鬼のイメージからかけ離れていますが、これは芥川龍之介が書いた小説『桃太郎』の一場面です。
 鬼のおばあさんが孫に言い聞かせるとき「いたずらをすると、人間の島へやってしまうよ」と鬼の目線からの表現もあります。
 私たちは生活の中で、一面的な視点で、ものごとを眺めがちです。それは「自分は常に正しい、悪いのは相手だ」という眼。そしてそれが、自らの姿をも見誤ってしまう原因となっているのです。
 鬼のおばあさんは人間の真実を言い当てています。「人間というのは、うそはつくし、欲は深いし、手のつけようのない『けだもの』なのだよ」と。

  (機関紙「ともしび」令和2年8月号 「常照我」より)

 

親鸞聖人のことば

五濁増のしるしには
この世の道俗ことごとく
外儀は仏教のすがたにて
内心外道を帰敬せり

『正像末和讃』「悲嘆述懐讃」より(「佛光寺聖典」六四四頁)


【意訳】

 五濁とよばれる、悲しむべき世に生きる私たちは、表面上は仏の教えを敬いながら、内心では自身の都合のよいものを敬っているのです。


 昨今、食品ロスが問題になっています。国内では年間約六〇〇万トンを超える食品を廃棄し、そのために生じる多額の費用、環境負荷などが生じています。


祖母の暮らし
 山奥で暮らした祖母は、使用したプラ容器、ビニール袋、それに割り箸まで洗っては保管していました。それを見ていた私に「いつか使うよ」と祖母は言っていました。
 また、調理をした残り物などは、裏の畑の片隅に持って行きます。私は「あんなところに捨てていいのかい」と聞くと「捨てたのではないよ、ああしておくと誰かが食べる」と言うのです。しばらくすると、ハエがたかり、猫が食事をしていました。

仏教のくらし
 ロスとは、無駄に費やすという意味です。
 私は毎食、「いただきます」と合掌します。それは、他のいのちをいただくからです。しかしそのすがたと思いとは裏腹に、心の内では味や食材の善し悪しを評価しています。また余ったものは、何も考えずに廃棄しています。さらに、そのような自身のすがたに問いさえ生まれません。
 仏教では、自分自身を問えないすがたを外道と教えられます。それは仏教ではなく、自身を信じているからです。そしてそのすがたこそが、五濁とよばれる悲しむべき世を生きている私たちそのものなのです。
 祖母の時代に比べ、空腹を感じない豊かな暮らしになりました。しかし、大量の食品ロスを生み出し、それに対し問いを持てない生き方は豊かと言えるのでしょうか。
 親鸞聖人は、私たちの生き方が内心外道を帰敬していることに気づかせようと、上記のご和讃をおつくりになられ、お示しくださっているのです。

  (機関紙「ともしび」令和2年8月号より)

 

仏教あれこれ

「丸見え」の巻

 全国から委員が集まる『ともしび』の編集会議はもちろんのこと、大学の授業までもがパソコンの前に座って行うリモートになり、困ったことがあります。それは、個人的な空間を他者に公開する、居心地の悪さです。
 お客さんが来られたら玄関先で話すか、あがっていただいても応接間どまりです。自分の部屋にお招きすることなど、ほとんどありません。それがリモートなら、部屋の中から繋がるのです!もちろん、自分でカメラを動かさない限り、部屋のすべてが映し出されることはありません。それでも、話している、その人の後ろに見える本棚や絵からは趣味が、そして、食器が置かれたままの食卓からは生活が、垣間見れてしまうのです。当然、同じように私も他者に見られています。
 会議前、入念にスマホの位置を確認しました。ご丁寧に、カメラに映る所には花も生けました。バッチリです。部屋に山積みされた本や洗濯物の山は、カメラが多少ブレても絶対に映らない、私が座る場所の真正面に移動しました。そうして始まった会議。突如として画面に映し出されたのは、散らかった部屋。誰かしら?見覚えがあるけれどと、思ったら、まさかの私の部屋!あろうことか、カメラが反転していたのです。
 嗚呼、恥ずかしい…。カメラに映らなければ、ないのも同じと思っていましたが、映らなくても、あるのです。たとえカメラから上手に隠せたとしても、仏さまからは丸見えです。

  (機関紙「ともしび」令和2年8月号より)

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