真宗佛光寺派 本山佛光寺

2020年7月のともしび

常照我

撮影 藤末 光紹氏撮影 藤末 光紹氏

 ある農家に一頭の馬がいました。この馬をねらって、屋根には泥棒、馬小屋の外には狼が。
 ここの住人が話すには、世の中で一番怖いのは、泥棒でも狼でもなく「フルヤノモリ」だと。これをもれ聞いた泥棒は恐怖のあまり、狼の上に落ちてしまいました。そして泥棒と狼は互いを「フルヤノモリ」だと勘違いし、ともに逃げ去ったとのこと。
 「フルヤノモリ」とは「古屋の(雨)漏り」。得体が知れないものに、両者ともおびえていたのでした。
 正体が分からないものを怖がる私たち。そして心の中にひそむその恐怖心が、時には偏見を生み、相手を傷つけることもあるのです。
 「フルヤノモリ」より怖いのは私たち人間の心なのかもしれません。

  (機関紙「ともしび」令和2年7月号 「常照我」より)

 

親鸞聖人のことば

火宅無常の世界は、
よろずのこと、みなもって、
そらごとたわごと、
まことあることなきに、
ただ念仏のみぞ
まことにておわします

『歎異抄』より(「佛光寺聖典」八一〇頁)


【意訳】

 確かなよりどころのないこの世界で、私たちが行っていることすべては、移ろいやすく空しく、真実と呼べるものは何一つありません。ただお念仏だけが真実なのです。


 新型コロナウイルスが世界を揺るがし、以前とは異なる価値観が社会を塗り変えています。


変化の激流
 以前は、お客様と対面するにあたり「マスクをしているのは失礼」とみなされていたものが、「マスクをしているのが礼儀」に変わりました。また緊急事態宣言下では、都市部から田舎への帰省は、「親孝行」から、地方へウイルスを持ち込む「親不孝」へと一変してしまいました。観光地自らが「今は来ないでください」と呼びかけるという、異例の事態。
 まさに、何を拠りどころに行く先を見定めればよいのか分からない時代です。今まで確かだと思っていたものが、何も確かではなかったのです。私も、この急激な変化に心がついてゆかず、自分を守るだけで精一杯になってしまっています。
 虚偽の世界なればこそ
 国境や県境を閉ざさざるを得ない状況下、閉鎖的になり、差別や非難が横行するのは、いたましいことです。でも、非常時だから仕方ない、という空気に飲み込まれてしまいかねない。
 現代以上に疫病が脅威であった鎌倉時代、親鸞聖人は「ただ念仏のみぞまことにておわします」と言い切られました。
 私たち一人ひとりを見守ってくださる仏さまの慈悲のお心は、平時も非常時でも変わりありません。一方で、私たちの心は、非常事態におかれた途端に動揺してしまいます。
 変わらないと勝手に思い込んでいた日常を、思いもよらず乱され、慌てふためく。「無常」という言葉を聞いても、わが身のこととして受けとめていなかった自分の姿が、改めて浮き彫りになりました。

  (機関紙「ともしび」令和2年7月号より)

 

仏教あれこれ

「オンライン会議」の巻

 四月、新型コロナウイルスの感染拡大にともない、緊急事態宣言が出されました。
 うららかな春の日差しのもと、公園の桜は満開でしたが、街は静かな緊張感に包まれていました。そのギャップが何とも不気味な印象です。私も外出が減り、日頃できていなかった作業をと思いますが、なぜかいつも以上に手につきません。先行きの見えない閉塞感を感じていました。
 そのような中、オンラインでの会議に初めて参加しました。通常であれば、本山佛光寺の会議室に集まり、行われる会議です。自宅にいながらパソコンやスマートフォンを使い、参加者が互いに顔を見合わせ、会議を進めることができます。
 議題に入る前、久しぶりに顔を合わせた仲間と、お互いの近況報告が始まりました。よほどたまっていたのでしょう。不安を口にする者、愚痴をこぼす者、最近あった出来事を報告する者。皆がいつも以上にしゃべるため、なかなか議題に入ることができません。会議の合間には、まるで会議室で集まった時のように冗談を言い、笑い合いました。
 会議が終わり、驚いたことがあります。塞いでいた気持ちが、少しだけ軽くなっている私がいました。
 抱える不安を伝え、愚痴をこぼし、冗談を言い、笑い合える相手がいること。その有難さに改めて気づかされたオンライン会議でした。実際に会議として成立していたのか、不安は残りますが……。

  (機関紙「ともしび」令和2年7月号より)

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