2020年5月のともしび
常照我
撮影 藤末 光紹氏
「町に来れば美味しいものがお腹いっぱい食べられるよ」。町のネズミにそう誘われた田舎のネズミ。町にあるビルの一室に着くと、目の前には見たこともないごちそうがありました。
しかし、それを食べようとしたとき、ドアを開ける音が。驚いた二匹はあわてて物陰に隠れました。もう一度、食べようとするとまたドアがバタン……。
田舎のネズミはこう言いました。「ごちそうを用意してくれてすまないが、ぼくは田舎の畑でのんびりと野菜を食べている方があっているよ」
ごちそうのある生活が幸せだと思っていた町のネズミ。
「幸福とはこうである」という固定観念をもって生きることは、他人への寛容さを失い、さらには自らの生き方をも縛っていくのでしょう。
(機関紙「ともしび」令和2年5月号 「常照我」より)
親鸞聖人のことば
法身の光輪きわもなく
世の盲冥をてらすなり
『浄土和讃』より(「佛光寺聖典」五八〇頁)
【意訳】
阿弥陀さまの光は、私が生きる世界をあまねく照らし、私の眼の昏きことを明らかにしてくださいます。
四月某日。毎朝の日課となっているお寺の番犬にして愛犬マルとの散歩でのことです。
踏みつけたいのち
散歩の最後に立ち寄る近所の公園には、ソメイヨシノが数十本植わっています。日中はお花見を楽しむ近所の方で賑わいますが、時間は早朝です。
静かな空気の中、公園の中でもひときわ大きな樹の下で立ち止まり、ふと見上げました。澄んだ空の青と、桜の淡いピンクとのコントラストがなんとも美しく、花弁を観察すると、中央が濃い赤に変色し、今にも散ろうとすることを教えてくれます。
そろそろ帰ろうかとマルのロープを軽く引きました。しかし、マルは動こうとせず、私が桜を見上げていた地面を、しきりに嗅いでいます。近寄ってみると、そこには地面にへばりつくように咲く小さな花がありました。
美しいと桜を見上げたその足で、同じように咲くいのちを踏みつけにしていた私を、マルが教えてくれました。
私をとりまく世界
私たちは、人間以外のいのちに対して、どこまでもわがままで残酷です。愛でるいのち、食べるいのち、踏みつけてしまっているいのち。当然のようにいのちの選別をしています。
しばしば、人間に被害を及ぼしかねないと判断された動物は、殺処分されてしまいます。私たちの生活といのちを守るためには仕方のないことだと。
阿弥陀さまの光は、私だけでなく、私をとりまく世界をも照らし出します。私が当然のように選別している無数のいのちに、私のいのちが生かされている。その事実に気づこうとしない暗き眼を、明らかにしてくださるのです。
(機関紙「ともしび」令和2年5月号より)
仏教あれこれ
「ボウサイズキン」の巻
小学一年生の時「ボウサイズキンを用意すること」というプリントが配られました。
家に帰り母に見せると、それを購入できる申し込み用紙が付いていました。すると、横目で覗いていた祖母が「あら、私が作るわ」と。
後日「ボウサイズキン」を持って登校。祖母が作った物は、青いキルティング地にスポーツカーが何台も描かれてあり気に入っていました。
教室に入ると、手作りは私と女子のふたりだけでした。彼女の物は、ピンクで花柄のキルティングでした。
先生の話では、日頃は椅子の背もたれにかけておいて、地震や火事の時は、それを頭にかぶり避難するとのことでした。そして次の時間は、全校生徒の避難訓練です。
先生が授業を進めるなか、私はいつ非常ベルが鳴るか楽しみにしていました。そしてついにベルが鳴りました。ボウサイズキンをかぶり、机の下にもぐり、数分後、校庭に避難したのです。
校庭で座っていると隣のクラスの男子が「お前のボウサイズキン薄いな」と言ったのです。私も気づいていました。購入した物は分厚いのです。気にしていたことを言われたので、彼をたたくとケンカになりました。先生に止められ怒られましたが、分厚いボウサイズキンをかぶっていた彼の顔の傷跡は、少なかったのです。
家に帰り「ばあちゃん、ボウサイズキン薄くないか」と言うと「バカだね。分厚かったら重くて逃げられないよ。それに夏は涼しい」と。
戦中を生きた祖母の知恵、願いに気づけず、ケンカの道具にするとは本末転倒も甚だしいことでした。
(機関紙「ともしび」令和2年5月号より)