真宗佛光寺派 本山佛光寺

2020年3月のともしび

常照我

撮影 藤末 光紹氏撮影 藤末 光紹氏

 「枯れ木に花を咲かせましょう」。花咲かじいさんが灰をまくと、一面に桜が咲き、お殿様からごほうびをもらったとか。これを知った隣の欲張りじいさんが同じことをすると、灰がお殿様の頭にかかり、たいそうな罰を受けたそうな。
 この欲張りじいさん、花咲かじいさんの行いを見て、得しそうなことであれば何でもまねをしていたのでした。
 昔だけでなく今も同じです。財産、名誉、地位。得をするならなりふり構わぬ人間。しかし損得勘定に振り回されて生きているのが、他人ごとではなく自分自身であることにまったく気づいていない私。
 欲張りじいさんの行動を通して、実は私自身が欲張りじいさんそのものであることが知らされてくるのです。

  (機関紙「ともしび」令和2年3月号 「常照我」より)

 

親鸞聖人のことば

無礙光仏のひかりには
無数の阿弥陀ましまして
化仏おのおのことごとく
真実信心をまもるなり

『現世利益和讃』より(「佛光寺聖典」六〇一頁)


【意訳】

 どこまでもさえぎられない仏様のはたらきは、さまざまな手だてで、教えという形となってわたしたちを導き、わたしたちにはたらき続けてくださっているのです。


 暮れになって、三歳の長男が発熱しました。元気がないなあと思っていると、あっという間に三十九度をこえました。


振りまわされて
 除夜の鐘を撞きに来られる方への接待や、年始参りの準備で大わらわの最中ですが、急いでお医者さんに走ります。
 インフルエンザではないようだとのことで、ひと安心です。
 ほかの家族と接触しないようにしているうちに、薬で熱は下がってきましたが、それからが大変でした。「お母さんお母さん」としがみつき、離れようとしません。何も飲みたくない、食べたくない。何もかもイヤイヤで泣き叫び、パニック状態です。
 忙しいからといっても、子どもは待ってくれません。妻もぐったりです。
 そんなある日、年始にお参りの方々が「ああ、うちの子もそうだった」「夜も抱っこしたままで寝られなかったなあ」と、懐かしそうにおっしゃいました。

どれだけの手間が
 ところで、お米が穫れるまでに八十八の手間がかかっていると昔はよく言いました。機械のない時代に田打ちから代かき、田植え、秋は稲刈りと、大勢が協力する手作業でした。だからこそ、ご飯のひと粒ひと粒を大切にするように教えられました。
 考えてみると、今でも子育てだけは家族の「手作業」です。機械化はできません。赤ちゃんが生まれてから毎日休みなしの子育て。私が今の私になるまでに、一体どれだけ多くの手間がかかってきたのでしょう。
 自分が気づいてこなかった無数のはたらきが、私を育んできました。休むことのないそのはたらきに目覚めなさいと、お念仏は深く響いてきます。

  (機関紙「ともしび」令和2年3月号より)

 

仏教あれこれ

「手足口病」の巻

 手足口病というウイルス性の感染症をご存じでしょうか。患者の九割は乳幼児だそうですが、子どもの夏風邪という思い込みは禁物と思い知りました。
 昨年、実家で一緒に遊んだ甥っ子たちが次々と感染していた翌週のこと。友人と来ていた旅先で食事をしていると、指先に違和感が。見ると米粒大の発疹がポツリ。あれ、これはもしや手足口病の…。
 嫌な予感は的中、その日のうちに両手にぶわっと発疹が広がり、翌日は足の裏にも!
 これが、痛いのなんの。せっかく旅行に来たのだからと絆創膏を貼りまくっても、痛みで歩くこともおぼつかず、観光の予定の半分もこなせない。手指の発疹の激痛で、お風呂でも洗顔・洗髪に奮闘するも、シャワーの水圧に敗退。
 そんな中で幸いにも、私は口には発疹が出ませんでした。口内に発症すると、食事どころか、つばを飲み込むのさえ痛いという体験談を聞いて、ゾッとしました。
 手足に何かが触れる度に悶絶の数日間でしたが、「不幸中の幸い」という言葉があれほど脳内をかけめぐったことはありません。レストランで自席まで辿り着く道のりに足を引きずり、お箸が指の発疹に触れてはヒッと飛び上がりつつも、おいしい食事を堪能することはできている。その喜びを、心の底から味わっていました。
 ありがたさとは、順風満帆な中で感じることは難しくとも、何らかの困難にぶち当たった時には、力まずにスッと身に染みてくるものだなあと実感した、貴重な体験でした。

  (機関紙「ともしび」令和2年3月号より)

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