真宗佛光寺派 本山佛光寺

2019年9月のともしび

常照我

撮影 藤末 光紹氏撮影 藤末 光紹氏

 私たち人間は遥かな昔から、美しい朝陽と夕陽を見つめてきたのだろう。今も感動を求めて初日の出やご来光を見に出かける。西に沈む夕陽を見るために遠い海へと車を走らせる。
 しかし朝陽と夕陽のその間、太陽を見上げて感動している人は見かけない。昼間の太陽は当たり前だから……。
 同じように、私たちはいのちの誕生を歓び、みんなが集まって赤ちゃんを抱きあげる。
 そして大切な人が亡くなるときには、その人の人生に静かに想いをはせる。いのちも、始まりと終わりは大切にされる。
 しかし私たちのいのちの今現在、真っ昼間はどうなっているだろうか。空しく過ごしてはいないだろうか。当たり前ではない一刻一刻の世界に眼を覚ませよと、お念仏の喚び声を聞く。

  (機関紙「ともしび」令和元年9月号 「常照我」より)

 

親鸞聖人のことば

竊(ひそ)かに以(おもん)みれば

『顕浄土真実教行証文類』より(「佛光寺聖典」一七五頁)


【意訳】

 甚だ失礼ながら、いろいろと思いをめぐらすと


 親鸞聖人の主著『顕浄土真実教行証文類』は「竊以」から始まりますが、この「竊」は、窃盗の窃の旧字体だと知った時は本当に驚きました。どうして、そんな物騒な字が?と。


かすめ取る
 「竊」の上の部分は穴倉を表し、下の左半分はそこに貯えた穀物を、右半分は虫を表すそうです。一説にはこの虫は、コクゾウムシだとか。そのことから、こっそり盗むという意味があります。親鸞聖人にとってご自身が出遇われた教えを文字にするのは、まるで教えをこっそりかすめ取るような、そんな謙遜を含んだお気持ちがあったのかも知れません。
 しかし、それだけでしょうか?かすめ取るというのは、同時に出遇われた教えの大きさ、深さをも表しているのではないでしょうか。言葉は悪いですが、根こそぎ盗るようなことはとても出来ない、圧倒的な大きさです。
 もっといえば、それは質の違いです。お釈迦さまがあきらかにされ、親鸞聖人が出遇うことができた教えは、世間の価値観を超えた教えだからです。

教えの大きさ
 勝った負けた、得した損した、好きか嫌いか、良い悪いと、私たちが物事を二項対立で判断すること。たとえば、健康は良くて病気は悪い等です。そして、そのことによって苦しむ。教えとの出遇いによって、病気が悪いのではなく、悪いと思い込んでいる、私自身の価値観が破られる。それは健康になったら、といった条件付けではない救いでもあります。良いも悪いも、全てを包み込む弘(ひろ)さです。その教えに、親鸞聖人のお言葉、一文字一文字を通して、今、私が出遇わせていただく。
 嬉しいことですね。

  (機関紙「ともしび」令和元年9月号より)

 

仏教あれこれ

「ママって誰?」の巻

 家庭内であなたは何と呼ばれていますか?
 家の中では、名前の代わりに「ママ」「パパ」「お兄ちゃん」「おばあちゃん」等々、家族内におけるポジションで呼び合うことは、よくありますね。
 我が家でも例にもれず、ママパパ呼びが定着しており、私も妹も、母のことをずっと「ママ」と呼んでいました。しかし、妹に子どもが生まれてお母さんとなり、甥っ子が妹のことを「ママ」、母のことを「ばぁば」と呼び始めて以降、三世代同居の我が家では、「ママって誰?」問題がひそかに浮上。
 ある日のこと。家族総出で外に食事に出かけた折、私が母に「ママ、メニューを取って」と声をかけると、甥っ子が即座に「ばぁばだよ!」と。彼にとっては「ママ」とは彼の母のことですから、不思議に思ったのでしょう。「そうだね、ばぁばだね(笑)」と訂正しましたが、少々照れくさい感覚がありました。
 その時にふと、家は子ども中心に回っているのだなあと思いました。子どもから見て、父母がパパママと呼ばれる。その子どもが大人になり結婚して子どもが生まれると、それまでママだった人がおばあちゃんとなり、パパだった人がおじいちゃんと呼ばれるように変化します。
 私は無意識に「ママ=自分の母」と固定的にとらえていましたが、役割も立ち位置も相対的なもので、時とともに移ろいゆくのだという当たり前のことに、甥っ子の何気ない一言で気づかされた出来事でした。

  (機関紙「ともしび」令和元年9月号より)

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