2019年8月のともしび
常照我
撮影 藤末 光紹氏
「ひまわり」という映画があった。ラジオでかかる感傷的なテーマ曲にひかれて同級生と出かけると、夫婦の人生が戦争で引き裂かれていく映画だった。
画面に広がる美しいひまわり畑。実はその下に、多くの兵士たちが眠っていたのだ。
十年ほど前のお盆参りの日、戦争で九死に一生を得たという世話方さんが、初めて体験談を語ってくれた。「戦争だけは何があろうと駄目だ」と私を見つめた強い眼を覚えている。
「仲間たちが生きていたら、子や孫もたくさん生まれていただろうに。犠牲者の数に子孫の数は入っていない……」その静かなことばが刺さってきた。
量り知れないいのちの歴史の中に人として生まれ出てきた私たち。その歴史に深く学んで生きているのか、問われている。
(機関紙「ともしび」令和元年8月号 「常照我」より)
親鸞聖人のことば
無明長夜の灯炬なり
智眼くらしとかなしむな
『正像末和讃』より(「佛光寺聖典」六三二頁)
【意訳】
阿弥陀仏の本願は、深い闇のようなわたしの煩悩を照らしてくださる。智慧の眼がないと悲しむことはないのです。
NHKプロデューサー秋満吉彦氏は、著書『行く先はいつも名著が教えてくれる』の中で、フランクルの著作『夜と霧』を取り上げています。
筆者は「自分が何になりたいか」という自己の思いを中心とした生き方ではなく、「自分に何が求められているか」という観点から、他の存在との関わりによって生かされているのだと気づかされます。それは、世界の見方が大きく変わったできごとだったと書かれていました。
「阿弥陀仏のご本願は、煩悩具足の私を照らしてくださる」と上記のご和讃をいただいても、心に引っかかりを得ない私は、まさしく自己中心の思いで生きていると知らされました。
無明長夜の灯炬なり
先日、日本屈指のアスリートに、突然重篤な病の宣告がありました。現在治療に専念され、復帰に向け闘っておられます。
「もう少し早く、診てもらっていれば」、「表彰台にいた栄光が」、「この先どうなるのだろう」とご本人の心中を察するに余りあります。
このニュースを知った時、「私には、何もしてあげることができない」と思いました。しかし、その瞬間「自分に何が求められているか」という言葉から、「何かできるとでも、思っていたのか」と問われたのです。
親鸞聖人ならば、そんな傲慢な私に対して「何かできる力を持っているのなら、すぐに仏に成って救済すべし」とおっしゃったことでしょう。
智眼くらしとかなしむな
私は老眼になり、メガネを必要とします。しかし、本当に見るべきものは、共に悩み苦しみ悲しんでくれている他の存在です。その見ることのできない眼をひらいてくれた一冊でした。
智慧の眼をいただけるご縁は、メガネがなくても得られることを和讃は教えてくださっています。
(機関紙「ともしび」令和元年8月号より)
仏教あれこれ
「伝わらない!」の巻
先日、アメリカからツアー客を連れて行くので法話をして欲しい、という依頼がありました。
同行された通訳さんは在米20年の日本人女性、仮にAさんとしましょう。熱心に聞いてくださいますが、驚くことに訳がことごとく違うのです。いい人になりましょう的なことを言うのです。いやいや、いい人になりたくてもなれない、私のための教えです。けれども彼女に悪気はありません。
そんな中、参加された方から質問をいただきました。「仏教の教えって何?」と。それに対して答える私の言葉を、Aさんは倫理的な回答に集約します。仏教とはそういうものだと、大真面目に思い込んでいるのです。
このままでは真意が伝わらないと不安になり、断ってから拙い英語で話すことにしました。それを聞き終わって質問者が一言、「仏教とは解放なのですね」と。
こうでなければいけないとの自分の思い、自分の都合や価値観などからの解放を仏教は伝えているのですね。そう晴れやかな顔で話す彼の横で、Aさんはキョトンとしています。彼女に伝わらなかったことが、アメリカ人には伝わった不思議。その違いは思い込みです。
Aさんには仏教とはこういうものだという思い込みがあったのです。話を聞いても、自分の価値観で理解していたのです。これは彼女だけの問題ではありません。他でもない私自身も、聞いたつもりの闇に包まれているのだとドキッとさせられました。
(機関紙「ともしび」令和元年8月号より)