2019年1月のともしび
御親教
門主 渋谷 真覚
日毎に秋も深まり、朝晩の冷え込みも厳しくなってきた中、本日は御正忌報恩講に、ようこそお参りくださいました。季節は、寒い冬へと向かっていきますが、こうしてお念仏を大切にするお同行が一堂に集うことは、何よりも心温まることでございます。
私は、去る四月に、佛光寺第三十三代の法灯を継承させていただき、この度、門主として初めて御正忌報恩講を勤めさせていただいております。
四月に継承してから、前門主の惠照さまを始め、大勢の方々のお導きに支えられて、歩ませていただいております。そして私の口から出るお念仏は、いただきものであり、声となってくださった仏さまにほかなりません。
親鸞聖人は『正像末和讃』に、
無明長夜の灯炬なり
智眼くらしとかなしむな
生死大海の船筏なり
罪障おもしとなげかざれ
と示され、長い歴史を貫いてきた本願のお念仏こそ、私たちの迷いの闇を照らす灯であるとお教えくださっています。
この御和讃に流れる本願のお心は、悩みを抱える私たちの悲しみを包んでくださり、知らず知らずに造ってしまう罪をも包んでくださいます。そして、阿弥陀様は悲しまなくていい、嘆かなくていいと仰せになり、私たちの確かなよりどころとなってくださいます。それは、まるで木枯らしの中の陽だまりのように温かく、優しく、私の背中を押してくださいます。
昨今は各地で自然災害が頻発し、時には無力感に襲われそうになりますが、生死を超える真実の灯は、ただひとつです。共に、本願のお念仏を聞かせていただきましょう。私も第三十三代門主として、先頭に立って聞法してまいります。お参りの皆さまにおかれましても、親鸞聖人に導かれ、お同行のお念仏に励まされながら、悩み多き中を一歩一歩、いきいきと歩んでくださいますよう、心より念願いたします。
本日は、ようこそお参りくださいました。
年頭のご挨拶
宗務総長 佐々木 亮一
明けましておめでとうございます。新年にあたり謹んで年頭のご挨拶を申し上げます。
宗務総長を拝命し早や六度目の正月を迎えました。その間、社会環境が日々変化を遂げる中、山積する課題に微力ながらも取り組んでこれましたのは、宗門の皆様の愛山護法の賜物と感謝申し上げます。
さて、昨年は、全国各地で自然災害が多発した年でありました。被災された皆様にお見舞い申し上げますと共に一日も早い復興を心より念じております。
また、四月には、第三十三代真覚門主の法灯伝承がございました。長年にわたる宗門の願いが成就しましたことを心よりお喜び申し上げます。
九月には、皆様のご懇念により、佛光寺本廟の総合改修事業が終了し、安心してご参拝いただける環境が整いました。
また、十月には、「大悲に生きる人とあう 願いに生きる人となる」の基本理念のもと「慶讃法会」の基本方針が決定され、
宗祖親鸞聖人御誕生八五〇年法要
立教開宗八〇〇年法要
聖徳太子一四〇〇回忌法要
第三十三代真覚門主伝灯奉告法要
を厳修する運びとなりました。
これは、日本に仏教が伝来して以降、如来のみ教えを、私たちにお届けいただいたお念仏の歩みであります。
慶讃法会は、二〇二三年五月、門信徒の皆様のご参詣のもと、厳修いたしますが、それに先立ち、ご門主の全国御巡教や新しい時代の聞法活動、若手僧侶の育成を始めとする宗門興隆、寝殿の改築などの基盤整備を計画いたしております。
門信徒の皆様には物心両面にわたり、ご負担をおかけいたしますが、この勝縁を新しい時代への第一歩として、ご協力をお願い申し上げます。
さて、昨年の御正忌報恩講は、真覚ご門主の初御出仕のもと、盛大に厳修されましたが、その中で、ご門主は、今日の混迷する時代社会を受けて、
無明長夜の灯炬なり
智眼くらしとかなしむな
生死大海の船筏なり
罪障おもしとなげかざれ
と、ご和讃をお引きになり、「阿弥陀さまは、知らず知らずに抱える私たちの悲しみや罪をも包んでくださり、悲しまなくてもいい、嘆かなくてもいいと仰せになり、私たちに確かなよりどころとなってくださいます。昨今は各地で自然災害が頻発し、時に無力感におそわれそうになりますが、生死を超える真実の灯は、ただ一つです。共に、本願のお念仏を聞かせていただきましょう」と、お示しくださいました。
私たちは、真覚ご門主を先頭に、新しい時代を力強く歩んでまいりたいと存じます。旧倍のご支援ご協力をお願い申し上げ年頭のご挨拶といたします。
常照我
撮影 フォトグラファー 田附 愛美氏
平成最後の年が明けた。
今年五月に新しい元号に切り替わる。
明治以降、天皇の即位と共に改められるようになったが、それ以前は災害や戦乱などがおこると、凶事を断ち切る意味で改元が行われた。一番短い元号は、鎌倉時代の暦仁で、わずか二ヶ月ほど。災いから何とかして逃れたいと願う人々の、強い思いを感じる。
その思いは正月の生花にも見られる。読み方が「難を転じて福となす」(難転)に通じることから南天がよく使われるが、暦仁の次の延応が一年半も経たずして改元されたように、たとえ目先の難を避けたとしても、また次の難がやって来る。
大事なのは難を避けるのではなく、難を避けたいという、私の思いが転ぜられることだ。
(機関紙「ともしび」平成31年1月号 「常照我」より)
仏教あれこれ
「日にち薬」の巻
昨年の夏、自分の不注意から転倒し、左足首を骨折しました。
お盆を前に松葉杖をつく私は、気ばかりがあせり「いつになったら、お参りにいけますか?」と主治医に尋ねると「早くて二カ月後。あとは、日にち薬です」…と。
さて、この「日にち薬」。そんな薬があるのかと思われたかも知れません。それもそのはず、関西圏を中心とした言葉で標準語ではないんですね。
手術をしたからといって、すぐに治るものではなく、あとは時間の経過と共に骨折箇所が癒合していきます。はやく治ってほしいとあせったところで仕方なく、じっくりと時間をかけて養生するのがいちばん…ということを「日にち薬」といわれてきました。
これは、身体のことだけではなく、心的なことにも使われることがあります。たとえば、大切なひとを亡くし、悲しみに暮れる。初七日がすぎ、やがて満中陰…と時間の経過と共に、悲しみが和らいできます。悲しみがなくなるのではありません。日にちの経過と共に現実を受け入れていくのです。
「時間が解決する」というより「日にち薬」といわれるほうが、しっくりとくるのではないでしょうか。言葉の難しさでもあり、温かみでもあります。
(機関紙「ともしび」平成31年1月号より)