2018年10月のともしび
常照我
撮影 フォトグラファー 田附 愛美氏
秋、色づく木々の葉が美しい。錦秋という言葉が表すように、まるで錦の織物のようだ。黄金色、琥珀色、朱色。葉の色を様々に変え、紅葉する姿に季節を感じる。私たちの及ばない自然の力が、そこにある。
その一方で、私たちは、変わることをよしとしないこともある。心変わりをした等、相手の都合に合わない変化は非難の対象となる。
しかし望むと望まざるとにおいて、周りの状況に応じて変えられていくことがある。それは自然なこと。なのに、変わって美しい、はたまた、変わって悲しいと騒いでいる。
そんな私が、木々と共に、大地に立つ。共に変わる存在として。大地はそんな私たちを丸ごと支えている。「そのままでいい」と。
(機関紙「ともしび」平成30年10月号 「常照我」より)
親鸞聖人のことば
煩悩、眼を障えて
見たてまつらずと雖も、
大悲倦きこと無くして
常に我を照らしたまえり
『正信偈』(「佛光寺聖典」二二九頁)
【意訳】
私の中から生まれ出てくる煩悩が邪魔をして、気づかないままにいる私ですが、阿弥陀如来の大悲のはたらきは、常に私に届き、照らし続けてくださっているのです。
先日、急に亡くなった友人のお通夜に出かけると、ご住職がこんなご法話をされました。
愛別離苦の原因
大切な方と別れるときの深い苦しみ「愛別離苦」は、なぜ起こるのでしょうか?
その原因は、生きているときに、その大切な人と出遇えていたからなのです。当たり前のことを言っているようですが、自分がその方と、大切なご縁をいただいていたということです。そして、その人から贈られたものがあったということです。
贈られたものと言っても、誕生日のプレゼントのような、目に見える物だけとは限りません。
自分がその方といっしょに過ごした時間……ご飯を食べたり、酒を汲み交わしたり、いっしょに笑ったりしたこと。自分が悩んでいるときに心配してくれたこと。その、ともに過ごした時間全体が贈り物なのでしょう。
その贈られたものの大きさ深さの分だけ、悲しみがやってくるのです。
贈られているもの
ご住職のお話を聞きながら、学生の頃、友人と一晩中アパートで語り合ったことが、急に脳裏に浮かびました。かつて私が家を継ぐことを悩んでいたときに、自分のことのように、いっしょに考えてくれた彼の真剣な顔と声が思い起こされました。
「たくさん贈られたものがあったなあ。ありがたかった」とすなおに手が合わさったお通夜の帰り道、家に向かいながら自分の家族のことを考えました。
亡き人に向かっては頭が下がった私ですが、今私のまわりにいる家族には、頭が下がっているんだろうか?
毎日贈られているものが確かにあるのに……。
(機関紙「ともしび」平成30年10月号より)
仏教あれこれ
「透明な色眼鏡」の巻
「紫外線」と聞いて何を思い浮かべますか?日焼け、お肌や目に有害、などでしょうか。
実は、意外な用途にも幅広く使われています。女性に人気のネイルカラーの定着とか、紫外線硬化型インキを使った印刷とか。私の勤め先の会社でも、紫外線を利用した検査装置を作っています。
ある時、開発部門が紫外線の強度を測定しているところに通りかかり、「そういえば、私のメガネのレンズはUVカットだそうだけど、実際どのくらい紫外線を遮断しているのだろう?」という疑問が頭をよぎりました。
早速、ちょっと試していい?と声をかけ、自分のメガネを外し、光源と測定器の間にすっと差し込んでみたところ…。何と、測定器の表示は瞬時にほぼゼロに!ただの透明なレンズだと思っていましたが、しっかり紫外線をカットしていたのです。
後からふと、これは私のものの見方にも当てはまるのでは?と思いました。
遮断している意識はなくても、自分に都合の悪い事実や意見はカットし、都合の良い部分だけを受け取る。そんな風に、都合の悪いことを遮断する透明な色眼鏡をかけているのではないだろうか。
長年メガネをかけていると、すっかり顔の一部として馴染んでしまい、かけていることを意識しなくなります。同様に、心の色眼鏡も、ずっと装着しているのに、そうとは自覚していないのではないでしょうか。
知らず知らずのうちに色眼鏡をかけた見方になっていないか?と、意識的に自分に問いかけていこうと思いました。
(機関紙「ともしび」平成30年10月号より)