2018年9月のともしび
常照我
撮影 フォトグラファー 田附 愛美氏
初めて彼岸花を見たときのことをよく覚えている。目を見張る鮮やかな色、美しい形に心を奪われ、引き寄せられるようにして近づいた。そして手を伸ばした瞬間、「ダメよ!彼岸花を家に持って帰ったら火事になるわ」。母の言葉に、慌てて手を引っ込めた。
それ以来、毒々しい色に、炎のような形、美しいと思った花が、おどろおどろしいものへと変わった。迷信に縛られて、根拠のない恐怖が先に立ち、キレイなものをキレイだと見られなくなったのだ。
彼岸とは、お浄土である。お浄土とは如であり、ありのままの真実の世界。花ひとつでさえ、ありのままに見ることのできない自分の愚かさを、秋の彼岸に咲くという花によって、知らされる。
(機関紙「ともしび」平成30年9月号 「常照我」より)
親鸞聖人のことば
悪性さらにやめがたし
こころは蛇蝎のごとくなり
『正像末和讃』(悲歎述懐讃)(「佛光寺聖典」六四三頁)
【意訳】
この身に備わった悪い性分は、消そうと思っても消えるものではありません。わたしの心はまるで毒を持ったヘビやサソリのようです。
悪性とは、善悪問わず自分の意志で操作できない心。私たちは、条件が整えばいつでもどこでも、そういう性質が顔を出すのです。上記は、八十歳を過ぎた親鸞聖人のお言葉です。
昔から、人が恐れ嫌う言葉として「蛇蝎のごとく」と毒蛇毒虫にたとえます。ヘビは、気配なく近づき毒牙で。サソリは大きくのけぞった尻尾から、不意を突き毒針を。
さて、サソリは「蠍」と書きます。日本には生息していません。ご和讃には、「蝎」と書かれ、一説にはキクイムシという害虫を指しています。
昔、物流の要は木造船で貴重でした。それを廃船にしてしまう虫で、食べ進む際に穴を掘り潜みます。外見は何ともなくても中は蝕まれているのです。この状態が、気づかぬうちに悪性がおこる私の心と例えられます。
こんなことの繰り返し
年初めに「ちょっと早いけれど、七月十三日十一時に三回忌お願いしますね」と頼まれました。七月を迎え、盆参りが多いなか、何とか間に合いました。ところが、玄関先で奥さまから「あら、十一月の十三日の約束よ」と。すかさず「えっ、七月って聞きましたが」と、すでに余計な一言を口にしていました。すかさず先方は「私、言いましたよ」と不快に。「すいません」と謝ったものの、あの時私が真っ先に言うべきことは「そうでしたか、申し訳ありません」という一言だったのです。
親鸞聖人は、自身ではどうにもならない悪性を、仏道のなかに見い出された人でした。外は賢く見えても、内には愚かな心が生まれるのです。思い通りにならない我が身を生きていることを教えられるお言葉です。
(機関紙「ともしび」平成30年9月号より)
仏教あれこれ
「賞味期限」の巻
先日、妻に頼まれ、買い物リストを片手に近所の大型スーパーへ向かいました。店に到着し、手押しカートにカゴをセットしながらリストを見ると、先頭に「牛乳」とあります。
ところで、スーパーなどで牛乳を買われる際、何も気にせず、一番手前に並べられたものを手に取る方が、どれほどおられるでしょうか。私は決してしません。
通常、牛乳は棚の下段に置かれているため、先ず棚の前で腰をかがめ、奥に並ぶ牛乳を覗き込みます。そして一日でも賞味期限の長いものを探すのです。現に、その日も奥の牛乳から無くなり、手前のものが残される状態になっていました。
しかし、賞味期限の短い牛乳が売れ残れば、より早く廃棄処分にされる日がくることは、誰にでも分かることです。
これがもし、自宅の冷蔵庫に二本の牛乳があった場合どうでしょうか。一本は賞味期限が五日後、もう一本は七日後です。当然、五日後のものを先に飲み始めます。腐ってしまうともったいないから。自分の所有物となったとたん、賞味期限の短いものから手に取る私。決してスーパーでは、そうしないのに。
自分だけは、少しでも新鮮なものが欲しい。自分のものならもったいない。自分可愛さから、決して抜け出すことのできない私を、手前で売れ残り、誰かの手に取られることを待つ牛乳が教えてくれます。
(機関紙「ともしび」平成30年9月号より)