真宗佛光寺派 本山佛光寺

2018年8月のともしび

常照我

撮影 フォトグラファー 田附 愛美氏撮影 フォトグラファー 田附 愛美氏

 夏の終わりのせつなさは、古い家屋が消えて、新しくビルが建つのに似ている。ある種の郷愁。季節に、建物に、そして、そこに重ね合わせた自分自身に対して。
 まぶしい日差しの下、元気にはしゃいだ季節がすぎて、いずれ厳しい寒さがやってくる。過ぎ去った時間は、もう戻ってこない。建物もいつかは朽ち、庭木もいつかは枯れる。淋しく、時に悲しくも、当たり前の事実。そしてそれは私たちも同じこと。
 いつまでも元気ではいられない。長生きできるとも限らない。その我が身の事実に出遇うとき、有限のいのちから問いかけられることがあるはずだ。
 限りあるからこそ、今が輝く。
夏の夕暮れが、せつなくも美しいように。今、ここ、だけだからこそ尊い。

  (機関紙「ともしび」平成30年8月号 「常照我」より)

 

親鸞聖人のことば

釈迦弥陀は慈悲の父母

『高僧和讃』(「佛光寺聖典」六一六頁)


【意訳】

 お釈迦さまは父のごとく、阿弥陀さまは母のごとくに、私たちを慈しみ、導いてくださるのです。


親の心に包まれて
 一歳半のやんちゃな甥っ子。愛らしい笑顔の一方、めっぽう怒りんぼうでもあります。
 お兄ちゃんとオモチャを取り合っては、自分のものにならないと怒りを爆発させたり、お兄ちゃんと同じ高さに上りたいのに、危ないからお前はダメと下ろされて、大泣きしたり。
 何とかなだめようと、ママがいないいないばぁをしたり、パパが高い高いをしたり。するとあっという間に笑顔を取り戻します。泣いたり笑ったり、コロコロ移り変わる幼子に常に寄り添い、育ててゆくのは、本当に手がかかることです。

父母のごとく
 そんな光景を見ると、泣いても怒っても受けとめてくれる愛に包まれて、自分も育てられてきたのだなあと、感謝の念がわいてきました。そのありがたさをかみしめていると、ふと、時に親心にたとえられる仏さまの慈悲とはこういうことか、と腑に落ちてきました。
 あの家は豪華に海外旅行に行っているのに、我が家は近場の温泉?と羨んだり、仕事がうまくいかないのは周囲が思い通りに動いてくれないからだ!と怒ってみたり。仏さまの視点から見たら、私は癇癪をおこして泣き喚く幼子と同じです。
 常に寄り添う親心など知る由もなく、勝手気ままに振る舞う幼子。同様に、決して見捨てないという仏のお心に気づくことなく、我を張っている私。
 けれど、そんな私だからこそ放ってはおけない、何とか救わんと、仏さまの願いは、常に私に向けられているのです。
 そのことを親鸞聖人は、釈迦は父なり弥陀は母なりという喩えで、讃えられたのでした。

  (機関紙「ともしび」平成30年8月号より)

 

仏教あれこれ

「ウケる」の巻

 お笑い番組などで、冗談やギャグが面白いとき、笑いが起こったときに「ウケた」といいます。これは割と若い言葉で、「受ける」という言葉は辞書などには「好評を受けること」とされています。今は「笑える」の意味で使いますから、使い方が変わったんですね。
 ところがこれは元々真宗の用語だったのです。
 「受け念仏」というものをご存じでしょうか。ご法話をお聴聞していて、有難く感じるところにくると、お同行の中から合いの手のように「なまんだぶつ」と聞こえるお念仏がそれです。布教使の言葉を遮らない絶妙のタイミングなのです。
 まるで歌舞伎の「○○屋!」というかけ声のようです。
 布教使のご法話を「受けて」お念仏が出るわけですから、受け念仏が聞こえると、布教使は「受けた」と、ますますご法話に熱が入ります。逆にお念仏の出ないご法話では、まだまだだと反省したりもします。そのあたりのライブ感は、芸人さんと一緒のようで面白いですね。
 しかし受け念仏は布教使を評価する行為ではなくて、お聴聞の中で仏さまに出遇った喜びの表現なのです。そうやって布教使とお同行が共にお聴聞の空気をつくっていったんですね。お念仏が聞こえると、仏さまがおいでになると味わえます。
 意識して出そうとするのも少し違うようです。ウケのタイミングに一生懸命になるのも本末転倒。仏さまのおはたらきを感じる行為なのです。

  (機関紙「ともしび」平成30年8月号より)

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