2018年7月のともしび
常照我
撮影 フォトグラファー 田附 愛美氏
遠い夏の記憶。虫とり、川遊び。網なら釣竿より簡単に魚が獲れるだろうと川の中へ。ところが、そうは問屋が卸さない。なかなか釣れない。
子どもの川遊びに限らず、私たちも色々なことに思いをめぐらし、計算し、そしてアテにする。しかし、アテが外れることは日常だ。思い通りに行かないこと、思い通りにならない人、ままならない人生。だから悲しい、辛い、苦しい。果たして、そうなのか。
足をつけた水の冷たさ、その心地よさ。そして、魚を探したワクワクした気持ち。何を得たか、ではなく、どう向き合ったのか。それは、人生から何かを得るのではなく、人生において何ができるのかに、似ている。本当に大切なことは、魚を得ることだけではないはずだ。
(機関紙「ともしび」平成30年7月号 「常照我」より)
親鸞聖人のことば
いまにいたるまで、
おもいあわせられ
そうらいしなり
『親鸞聖人御消息集 上』第七通(「佛光寺聖典」七二八頁)
【意訳】
今にいたってもなお、私の身の事実と、思い合わせられることです。
五十年たっても
親鸞聖人八十八歳。最晩年に送られたお手紙には、在りし日の、師である法然上人のおもかげとともに、その語られた言葉が、したためられています。その言葉は、今に至ってもなお、わたくし親鸞に、教えとして響き続けているのだと。
親鸞聖人は三十五歳までの六年間、法然上人のもとで過ごされました。それから約五十年以上たった今でも、響き続けているのは、「浄土宗の人は愚者になりて往生す」という師の教えでした。
聴聞したら?
長年お寺通いを続けてこられたおじいさん。「私は聴聞を続けて、最近、腹が立たんようになった」と。それを横で聞いていたおばあさんが、「あんたの周りには、ようできた人ばかりが、おられるんですなぁ」と。「そうじゃなくて、ご法話で、いろんなよい話を聞かせてもらったら、腹が立たんようになったんや」。「うん、なるほど。やはり、あんたの周りは、よい人ばかりなんですなぁ」。すると、おじいさんから、「いや、だから!ご法話を聞いて……」と大きな声が。
有難いお話しを聞いた、という思いは、これで私も少しはマシな人間に、という錯覚をおこさせます。また聴聞を重ねた回数で、人より優位に立とうとすることも。聴聞によって本当に知らされるのは、そんな私の変わることない浅はかさ、傲慢さなのです。
自分では気づくことのない、私の真実の姿を知らしめんとする阿弥陀さまの願いは、必ず言葉となり、私に届いています。その言葉を、いのち終えるその時まで、響き続ける教えとして、私は出遇えているのか、親鸞聖人のお言葉に問われます。
(機関紙「ともしび」平成30年7月号より)
仏教あれこれ
「桃太郎」の巻
桃から生まれた桃太郎。村を荒らしに来る鬼を退治するため、イヌ・サル・キジを従えて鬼ヶ島へ。そして見事に鬼を退治。宝ものを持ち帰り、おじいさん・おばあさんと幸せに暮らしたとさ。めでたし、めでたし。
だれもが知っている桃太郎のお話。これを読んで、特に違和感をもつ人はいないでしょう。
でも、よくよく考えてみると、この昔話は、桃太郎や村人の側から見て、「めでたし、めでたし」と締めくくっているのです。鬼にしてみると、決して「めでたし、めでたし」では……。
岡山県のある中学校では、この話を、鬼の立場からも考えてみる授業をしているという新聞記事がありました。
もし鬼に子どもがいたら? 鬼に農業を教えてみたら?
これらの仮説に生徒たちは、桃太郎と鬼の両方の視点から議論したそうです。
「家族がいると分かれば、桃太郎は何もせず村に帰ろうと思うはず」「農業を知れば、鬼は村を荒らしに来ない」と。
一方、私たちは生活のいろいろな場面において「自分が正しく、相手が悪い」という自分中心の思い込みや決めつけを持って生きています。そしてそれが人間関係をこじらせてしまう原因となることも少なからずあるでしょう。
「相手の立場も考えてみる」。ご近所付き合いや家族関係を見つめ直してみる大切なヒントになるのかもしれません。
ただ、常に自分の思いを持っているこの私が、相手の立場になって考え続けるのはかなり難しいことですが……。
(機関紙「ともしび」平成30年7月号より)