2018年4月のともしび
常照我
撮影 フォトグラファー 田附 愛美氏
桜ほど私たちの感情に訴えかける花も少ない。ある人は入学式を思い、またある人は花見を思い浮かべる。親鸞聖人のお得度を思い出す人も多いはずだ。
その親鸞聖人は、阿弥陀さまの願いを私たちに説くために、お釈迦さまは生まれられたのだと受け止めた。
見る者それぞれに、それぞれの桜の受け止めがあるように、お釈迦さまも同じだ。ライバルだと思った者もいた。超人的な偉い人だと崇めた者もいた。その中で、阿弥陀さまの願いを説くためだと受け止めた親鸞聖人。
実際に顔を合わすことはなくとも、時を超え、場所をも超え、そのような出遇いがあった事実。では私にとって、私のいのちにとって、お釈迦さまとは。
今月は、お釈迦さまの誕生をお祝いする花まつり。このご縁に、今一度尋ねたい。
(機関紙「ともしび」平成30年4月号 「常照我」より)
親鸞聖人のことば
明日ありと
思う心の 仇桜
夜半に嵐の
吹かぬものかは
『親鸞聖人絵詞伝』(巻一 十三丁裏)
【意訳】
今はきれいに咲き誇る桜も、思いもよらない嵐に見舞われ、今にでも散ってしまうかも知れない。人の命も同じく、今は元気でも明日の命はわからない。
今から八百年以上も昔、京都東山の青蓮院にて僧侶になるための出家得度を願われた御年九歳の親鸞聖人。
今日は日も落ち、夜も遅いことなので、明日になってから得度式を執り行うように勧められたところ、目にいっぱい涙を浮かべ、詠まれたとされるのが上記の歌です。
時の青蓮院院主、慈円和尚はその歌に深く感銘を受け、すぐさま弟子たちに準備を命じ、蝋燭の灯りがゆらぐ中、厳粛に儀式が執り行われたといいます。
当たりまえを破る
昨日まで元気だった人が、朝になったら冷たくなって亡くなっていた。こういう話を聞くと誰もが驚きますが、ほんとうに驚くべきことは、朝になって亡くなっていたことより、朝になって亡くなっていてもおかしくない私が、今日もいつものように目が覚めたという事実です。
浅田正作さんに「うかつ者」という詩があります。
今朝もまた
目が覚めたを
なんとも思わず
一日がはじまった
あさましや
目が覚めたを
当たり前にして
何が喜べようか
日頃、もう少しふとんに入っていたいな、あるいは起きたくないなという思いで目覚める朝はあっても、目が覚めたことに感動して始まる朝はあるでしょうか。
当たり前にどっぷりと浸かった生活の中では、感謝とか感銘、反省など出てこようはずがありません。当たり前という感覚が突き破られるとき、今までにない一日が始まります。
(機関紙「ともしび」平成30年4月号より)
仏教あれこれ
「四月は春?」の巻
春うららかな四月。
四月といえば新年度・新学期という始まりの節目。また、寒い冬が終わって木々が芽吹く、暖かく過ごしやすい季節です。
しかし同じ四月でも、住んでいる地域によって全く違うものとなります。
以前タイ人の知人と季節の話をしていて、お互い違うイメージを思い浮かべ、話が食い違っていたことがありました。
四月は、日本では、桜が咲き温暖なイメージですが、あちらでは、四月といえば、水かけ祭が行われるほどの酷暑の季節。もとより常夏で、四季がある地域ではありませんが、一年で最も暑い時期という意味で「今がサマーだよ、サマー!毎日暑くて…」とぼやいていました。
また、南半球では四季は逆転しています。数年前、ゴールデンウィークにオーストラリアへ行った時、山の木々が紅葉しているのを目のあたりにして、「当たり前だけど、こっちはこれから冬に向かう、秋なんだなあ」と実感しました。
このように、「四月といえば春」ということも、「春という季節が存在する」ということも、日本において常識だからといって、世界を見渡せば、必ずしもそうではありません。でも、ずっと日本の中にいたら、自分からは、その常識を違った立ち位置から見てみようとも思わなかった私です。
私が自分の尺度で常識だと思っていることも、固定的な事実とは限らないぞ。そんな風に、物事を思い込みでとらえがちな私に、別の視点への気付きを促してくださるはたらきかけは、人生のふとした場面に常に存在しているのです。
(機関紙「ともしび」平成30年4月号より)