2017年8月のともしび
常照我
「ガザニア」 撮影 藤宮 賢樹氏
盂蘭盆会
空席のない夕ご飯
食卓の席が、ひとつ空く。お盆を迎えると、そこにご先祖が帰って来るという風習がある。
お盆の入りにはお墓へ参り、「連れて帰ります」。お盆の明けには、「戻りました」と声をかけられた。亡き人の送り迎えをしているのだ。
柳田国男は『先祖の話』で、人が亡くなると三十三、または五十回忌に、とぶらい上げと称して最終の法事を営む。それから後は、故人が先祖となる風習が各地であったと記している。
「これが大好きだったから」とお煮しめを供え、手を合わせるおばあさん。訪ねるところに、仏さまは常に居られるのだ。
青々とした木々に夏の陽光。蝉しぐれが、故人の訪れを知らせているようだ。
(機関紙「ともしび」平成29年8月号 「常照我」より)
仏教あれこれ
「遺影」の巻
いつものように月参りに出かけ、ふとお内仏の横を見ると満面の笑みで微笑むおばあちゃんの写真。お勤めを終え、お茶をいただきながら、その写真に話題をふると、待ってましたとばかりに話してくれました。
「これ、私の遺影なんですよ」
「ずいぶんと準備のいいことで…」
「はい。遺影といっても、自分が気に入った写真を使ってほしいので…」
かつて、遺影といえば白黒写真が当たり前でしたが、最近はカラーが主流になりました。
あらためておばあちゃんの写真に目を向けると、写真屋さんで撮影してもらったようで、花柄の洋服、それにバラの花束まで持って、なかなか派手な出で立ちです。
「歳に似合わんかも知れませんけどね…」というおばあちゃんに娘さんは「この写真を遺影として使うのは、まだまだ先のようやし、写真だけが若返っていくわ」と大笑い。
元気で長生きしたい…それでいて歳は取りたくない…それが無理なら、せめて遺影くらいはきれいでいたい。
人間の欲にきりはなく、とどまるところを知らないようです。
ふと、上を見ると紋付を着たおじいちゃんが、いぶかしそうな表情で見下ろしていました。
(機関紙「ともしび」平成29年8月号より)
和讃に聞く
智慧の光明はかりなし
有量の諸相ことごとく
光暁かむらぬものはなし
真実明に帰命せよ
浄土和讃(『佛光寺聖典』五八〇頁 四首)
【意訳】
阿弥陀仏の智慧のはたらきは、闇を照らす光明のようです。
自分の都合で、物ごと分け隔てし、その事実に気づいていないという闇をもった私を、光明となって照らし続けているのです。
そのような阿弥陀仏の智慧を、よりどころとせずにはおれません。
小学生の息子。まだまだ子どもっぽく、こちらから話しかけなくても、あれやこれやとうるさいくらいにしゃべってくれます。可愛いもんです。
一方、中学生の娘。もともと口数が多い方ではありませんでしたが、さらに少なく……。特に父親である私に対してはほとんど口をきいてくれません。私が「部活がんばってたな」「音楽発表よかったな」と言っても、うつむき加減で「ふん」「ん~」と生返事。
成長の証だと納得しているものの、「むかしはもっと愛想よくて可愛かったのになぁ」と思うことも……。
その生返事は
先日、いつも通りの生返事を聞いて、何か感じるものがありました。どこかで見たことのあるような光景です。親子なので似ているのは当然なのですが、私自身が生返事している姿と重なったのでした。
中学・高校生時代の私も、親の問いかけに対して、いつも生返事を繰り返していたことが思い起こされました。
さらに、その頃だけにとどまらず、最近であっても、年老いた母からの話しかけに対して、いい加減な反応しかしていないことも……。
光明となって
他人の「ひと言」で自分自身の姿が明らかになることがあります。言葉だけでなく、なにげない「表情や動作」であっても、それが智慧の光明となってこの私を照らしているのです。
「うつむき加減の生返事」を通して、自分自身を棚に上げて、娘のことを見ていた私の姿に加えて、ついつい息子と比較してしまっている私の姿も知らされたのでした。
(機関紙「ともしび」平成29年8月号より)