真宗佛光寺派 本山佛光寺

2017年5月のともしび

常照我

「ニゲラ」 撮影 藤宮 賢樹氏「ニゲラ」 撮影 藤宮 賢樹氏

 百花繚乱は、温和で湿潤な気候が織りなすいのちのすがた。そこに暮らす私たちは、花を愛で鑑賞するといった、自然との交流を楽しむ文化を持っている。
 先日、通りがかった一台の車から、ジュースの缶が投げ捨てられた。その後には、弁当の容器まで。憤慨し、拾い集めながら思った。どれも自然に還らないものばかりだ。
 かつて山間に暮らした祖母は、どうしても食べきれなかったものを紙に包み、輪ゴムなどかけずに、「山のものへあげて来い」と私に命じていた。私は、それを持って谷に投げに行く。山の生きものは、それを取りに来る。
 交流とは、互いに受け入れることだ。そうでないものを廃棄することは、この世では生きられない。春暖の花々が、そう教えている。

  (機関紙「ともしび」平成29年5月号 「常照我」より)

 

仏教あれこれ

「青じそ」の巻

 「緑色なのに、なぜ『青じそ』と言うのでしょうか?」
 月参りにお伺いした際、ある高校生から受けた質問でした。それはその家にホームステイしているアメリカ出身の方。
 確かにそうです。よくよく考えてみれば「青葉」「青りんご」「青ネギ」「青々としげる」。これらは皆、緑色なのに「青」と書きます。
 子どものころから使っているので、そういうものだというくらいにしか認識していませんでした。なので、その質問に対して答えることができません。
 自宅に戻って調べてみたところ、昔、日本語で色調を表現する言葉は「白」「黒」「赤」「青」だけでした。「白」「黒」は今とほぼ同じ意味合いで使われていましたが、「赤」は赤に加えて橙色や黄色などの暖色系を、「青」は青に加えて紫色や緑色の寒色系を表していたようです。
 したがって「緑じそ」でなく「青じそ」なのです。本当に目からうろこが落ちる思いでした。
 この高校生が疑問を投げかけてくれていなかったなら、私自身、そのことを知ることなく、「緑を青と表現するのが常識だ」と思い続けていたことでしょう。
 私たち人間が普段、常識としている事実も、違った角度から眺めると決して常識ではない。しかしながら、そのような視点はそれを常識としている私からはなかなか生まれてきません。
 私以外の観点があってはじめて、「常識ではない」ことを知らせてくれるのだと教えられたことでした。

  (機関紙「ともしび」平成29年5月号より)

 

和讃に聞く

弥陀成仏のこのかたは
いまに十劫をへたまえり
法身の光輪きわもなく
世の盲冥をてらすなり

浄土和讃(『佛光寺聖典』五八九頁 五五首)


【意訳】

 仏と成られてから阿弥陀さまは、いま十劫という年月を歴(へ)ておられます。
 仏さまそのものであるような教えの光は際限なくゆきわたり、無明にしずむ煩悩の衆生を照らしてくださいます。


 このご和讃は報恩講などでお勤めされますから耳に馴染みのある方もいらっしゃるでしょう。
 お坊さんと一緒にお経を読んでいた兄弟が話しています。
 「お兄ちゃん、いまに十劫をへたまえりって言うけど、へたまえりってどういう意味なん?」。
 聞かれたお兄ちゃん、答えは知りませんが兄として答えないわけにいきません。「そら、あれや。お経ヘタでもいいから参り、って意味や」。
 「兄ちゃん賢いなぁ!」。
 もちろん意味は違いますが、声に出してのお参りを勧めるとは、イヤ、なかなかの答えです。


光の言葉となって
 「へたまえり」は長い時を「歴(へ)ておいでになる」ということで、阿弥陀さまは私が気づくよりはるか昔から、すでに私にはたらき、案じ続けてくださっていた、という深いお慈悲を味わう言葉です。
 はたらきというと漠然とした感じがいたしますが、具体的にはそれは、教えの言葉です。
 阿弥陀さまは教えの言葉となって私に届きます。傷つき悩む私たちの偏った煩悩の眼を、仏さまの智慧が明るく開いて、豊かな考え方・生き方を、言葉を通して教えてくださるのです。
 仏さまの言葉が心を育て、私の心の闇を破ってあたたかく照らすので、それを光に喩えて光輪と言うのです。

声に聞く仏のはたらき
 声に出してお参りすれば、お経の言葉が、なむあみだぶつが聞こえてきます。聞けば、私を案じて下さっていた阿弥陀さまがここにおいでくださるのだと思い出します。阿弥陀さまと出遇える世界は、その一声の上に開かれているのです。お兄ちゃん、さすがですね。

  (機関紙「ともしび」平成29年5月号より)

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