2017年4月のともしび
常照我
「ボリジの花とクマンバチ」 撮影 藤宮 賢樹氏
春眠暁を覚えず。そんな日の深夜、大地震が熊本を襲った。
あれから一年。被災した我が家の解体を見つめる門徒さんがおられた。近づくと、目も合わさず「悲しい」と一言。
「かなし」とは、自分の力の限界に立って、何もできない状態を表す。
法事の後座でのこと。「何を持って避難したの」「私は主人の写真…。私は母の位牌…」と聞こえてきた。
若い女性は、「父です、供養してほしい」と両手で小さな袋を抱いて来寺。倒壊した墓から、なんとかひとかけ持ち出したという。読経後、「これで、安心して暮らせます」と溢れる涙も拭わず帰って行かれた。
悲しみの世を生きてきたご先祖の形見や思いが、私たちの生きる力となっている。
(機関紙「ともしび」平成29年4月号 「常照我」より)
仏教あれこれ
「小走り」の巻
僧侶という立場をいただいている私。だから学ばなければいけない、という訳でもないのですが、教えを学ぶために色々な場に身を運んでいます。お経さんを漢文で読む、僧侶による僧侶のための勉強会から、広く一般に公開されている講座まで。大学や大学院でも学んでいますが、学位が欲しいのではなく、正直、ただ楽しいのです。
先日も、ある大学で行われた公開講座に行ってきました。5階の会場までエレベーターで行きます。乗っておられるのは受講されている方々です。ドアが開くと我先にと飛び出し、小走りに会場に向かいます。なぜなら、座る席は先着順だからです。当然、私の足も早まります。小柄なご年配の方を追い越しそうになった時、ふと思いました。人を押しのけてでも、いい席に座りたい。連続講座を受けて、実際に私が学んだのは、エレベーターのドアが開いたら急いで会場に行くこと。それでは、あまりにも悲しすぎます。情けなさを伴った滑稽な思いになり、思わず足の動きにブレーキがかかりました。
同時に、楽しいから聞きに行っている、学んでいると言いましたが、学んだ後はどうなのか?得た知識を「知っている」と誇る思いは、私の中にうまれていないか?
自分ではコントロールすることができない思い。そんな思いに気付かせ、ブレーキをかけてくれるはたらきもまた、お念仏なのでしょう。
(機関紙「ともしび」平成29年4月号より)
和讃に聞く
無碍光の利益より
威徳広大の信をえて
かならず煩悩のこおりとけ
すなわち菩提のみずとなる
高僧和讃(『佛光寺聖典』六一〇頁 三九首)
【意訳】
阿弥陀如来のどこまでもさえぎられない光明によって、広大な信心をいただくと、日の光に氷がとけて水になるように、煩悩がそのままさとりの智慧に転ぜられていくのです。
初七日の読経を終えて振り返ると、おばあちゃんがお茶を入れながら話し始めました。
くやしくて
「今朝起きると気持ちのいい青空でしたが、連れ合いがいません。相手がいないと天気の話ひとつできないんですね。そんな当たり前のことに、初めて気づきました」
おじいちゃんはかなりお酒を飲む人で、他人と口論になったり道路で寝てしまったりで、その度に頭を下げるのがおばあちゃん。威勢のいいけんかも多かったご夫婦でしたが、不慮の事故で急な別れになってしまったのです。その後こんなお話をされました。
「お参りに来てくれる友だちが、あなたも長いこと苦労したなあ、と言うんです。悩みの種から解放されたね、と言われているようで何かくやしくて、連れ合いは若いときから汗水流して田んぼに畑に、相当がんばったんだと言い返すんです」
氷と水
お仏壇の前で手を合わせると「でも今になってじいちゃんをほめとるこの口は、連れ合いのせいで私ばっかり苦労する、あんなのいなくなればいい、とさんざん悪口言ってたのと同じ口だと気づいて情けなくてね」
若く貧しい頃から一所懸命に二人で働いて、少しずつ田んぼを増やしてきた苦労話をゆっくりとお聞きしました。
ふだん気づかずに抱えている、自分中心の私たちの頑なな心は氷にたとえられますが、お念仏の教えの中で、そのことに眼が開かれ、柔軟な水、やわらかな心へと転ぜられます。当たり前に見えていた毎日が、有り難いかけがえのない世界であったと、立ち現れてくるのです。
(機関紙「ともしび」平成29年4月号より)