真宗佛光寺派 本山佛光寺

2016年12月のともしび

常照我

「畔唐菜(アゼトウナ)」 撮影 中山 知子氏「畔唐菜(アゼトウナ)」 撮影 中山 知子氏

 「師走」と聞くと「忙しい」という言葉が思い浮かぶ。サービス業などでは仕事柄十二月が繁忙期であろうが、職業によらず、何かと気ぜわしい。
 年賀状の準備に大掃除、忘年会だクリスマスだと駆け回り、年末年始は帰省ラッシュ。あれもこれも立派にこなし、充実させよと追い立てられる。
 例えばクリスマス。私自身、「仏教徒なのだから…」と強がってみても、クリスマスは恋人や友人と楽しく過ごしましょう、という空気にのまれて、毎年必ず何らかの予定を入れてしまう。
 いや一人であっても仕事が入っていても、街を歩けば、せめてクリスマスの食事やデザートをと、コンビニからも煽られる。
 果たして、それらは本当に私を満たしてくれているのか。立ち止まって自分を問い返そう。

  (機関紙「ともしび」平成28年12月号 「常照我」より)

 

仏教あれこれ

「喪中はがき」の巻

 今年もあとわずか。毎年、この時期になると通常の郵便物に混ざって到来するのが喪中はがきです。
 ところが、真宗の教えに「喪中」という考え方がありません。となると、喪中はがきを出す必要がないということになりますが、世間とのお付き合いもあり、ましてや皆が皆、真宗門徒というわけでもなく、そうもいかないというのが、現実ではないでしょうか。
 通常どおり年賀状を出すことに躊躇されるようであれば、落ちついてから寒中見舞いとして、家族が亡くなったこと、それにより新年の挨拶を遠慮したことをお知らせするのはいかがでしょう。
 数年前のことになりますが、故人から年賀状が届いたことがありました。ポストに年賀状を投函された後に亡くなられたのです。
 その年賀状には、達筆な文字で「今年も相変わらずのお付き合いをよろしくお願いします」と書いてありました。
 死の縁は無量です。いつどこでどんな死に方をするか、誰にもわかりません。
 尊きいのちをいただき、今を大切に生きるのが私たち真宗門徒の努めです。
 身近な方が亡くなったことを縁として、お念仏の教えに遇わせていただいたことを新年の挨拶として、これまで以上のお付き合いが深まれば素敵ですね。

  (機関紙「ともしび」平成28年12月号より)

 

和讃に聞く

光明てらしてたえざれば
不断光仏となづけたり
聞光力のゆえなれば
心不断にて往生す

浄土和讃(『佛光寺聖典』五八二頁 十二首)


【意訳】

 阿弥陀さまの光明は、絶え間なく私を照らし続けてくださるので、不断光仏とお呼びします。
 その絶え間ない、阿弥陀さまのはたらきを聞き続けることで、浄土へと往生させていただくのです。


寺の門前を西へ百メートル行った所に住んでおられたご門徒のおばあさん。


往復四百メートルの散歩
 おばあさんの日課は、家から寺まで百メートル、門前で立ち止まり本堂の阿弥陀さまの方へ向かい合掌、しばし佇まれた後、門前から東へ百メートル、お友達が集まる公園までの散歩です。帰路もまた門前にて必ず合掌されていました。
 そんな元気だったおばあさんが昨年の冬、風邪をこじらせ八十八歳で亡くなられました。知らせを聞き、急いで枕経のため、ご自宅へ伺いました。

へこんだ畳
 ご家族とお話ししていたところ娘さんが、「ちょっとごえんさん、これ見てください」と、お内仏前の畳を指さされます。見ると、月参りの時にはいつも、分厚い座布団が敷かれていた場所が小さくへこんでいます。
 聞けば、おばあさんはいつもお内仏の前に座布団を敷かずに座り込み、仏さまと何やら会話をされていたそうです。へこんでしまった畳は、おばあさんが仏さまの前で長年座り続けられた証でした。
 「生まれてからずっと、ひとに迷惑かけっぱなしの私が、こんな歳まで生きて、ほんまに有り難いことや」というのが口ぐせだったおばあさん。ひとに迷惑をかけながら生きるしかない身を、仏さまに照らされ続け、気づかされたからこそ出る言葉だったのでしょう。
 今では月参りのお勤めの後、敷かれた座布団をはずし、へこんだ畳を見ると、「仏さまはいつもはたらき続けてくれてはりますよ。ごえんさんが仏さまのこと忘れてはる時でも」と、おばあさんに呼びかけられている気がします。

  (機関紙「ともしび」平成28年12月号より)

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