真宗佛光寺派 本山佛光寺

2016年7月のともしび

常照我

「合歓(ねむ)」 撮影 中山 知子氏「合歓(ねむ)」 撮影 中山 知子氏

 七月、日本では梅雨明けが待ち遠しい時期、インドでは雨季の真っ最中。
 お釈迦さまは、雨季には僧侶は遊行をやめ、一処に定住して修行するべしと定められた。土砂降りの中をむやみに歩き回って、知らぬ間に虫を踏み殺すことを避けるためだという。
 しとしとと降り続く雨の中、その話を思い出し、ふと自分の足元を見ると、周辺の畑から多数のミミズが這い出てきていた。アスファルトで舗装され、普段は見えていないだけで、無数のいのちが生きている世界の中に自分もいるのだと実感する。
 意識せぬままに小さな虫を踏みつぶし、自分の手は下さぬままに他の動物のいのちを食べ物としている私。見えない殺生を重ねながら生きていることは、忘れずにいたい。

  (機関紙「ともしび」平成28年7月号 「常照我」より)

 

仏教あれこれ

「味わう」の巻

 日本人は世界有数の「味にうるさい民族」です。テレビ・雑誌と、食は周囲に溢れています。
 ところで、「昨日の晩ご飯は何を食べましたか?」
 そう言われて、思い出せない。
 これは味わえていない証拠です。
 「味わう」ということは、口に入ってきたごはんの味を、よく噛んで、よく確かめて、よく味わって、「おいしいな、よかったな」といただくと、その味が心に刻み込まれていきますが、それが味わうということです。
 その「味わう」を、食べる時だけでなく日常生活の日暮らしの中で使っていくのが仏教の言葉の面白いところです。
 「今日という一日を味わう」とか、「味わい深いご法義」というように、今生きているいのちの上に「味わい」を感じていくのです。
 それは何も感じずにただご飯を胃に入れていくだけのような無自覚な一日ではなくて、その瞬間瞬間の出来事を大切に受け止めることで、生きているいのちをしっかりと心に刻みつけていくことなのでしょう。よく味わえば、ごはんの味の深みに気が付くように、なんでもないこの一日も、よくよく味わえばかけがえのないたくさんの素晴らしさに気付けるはずです。
 どんな食べ物にも奥深い味わいがあります。本当は人生の山坂も、味わい深く感じていける世界があるのでしょう。「味わう」とは、意味を十分に感じ取るということなのです。
 今日を素通りすることなく、豊かな意味を感じられる、味わい深い人生にしたいものです。

  (機関紙「ともしび」平成28年7月号より)

 

和讃に聞く

染香人のその身には
香気あるがごとくなり
これをすなわちなづけてぞ
香光荘厳ともうすなる

浄土和讃(『佛光寺聖典』五九八頁 一〇一首)


【意訳】

 まるで香を焚き染めるように、お念仏の教えに出遇った人を包み、その人自身の香りとなる。それは、阿弥陀さまの徳が、念仏する者の上に成り立つ姿をあらわしています。


 汗をかくこの季節、気になるのは自分の匂いです。
 巷には色々な商品が溢れていますが、生きている以上、汗を止めることも体臭を無くすこともできません。シャワーを使えばさっぱりしますが、1時間もしない内に汗ばんできます。ましてや日常生活の中で、頻繁にシャワーを使うことは現実的ではありません。

どうすることもできない
 生まれ持った「業」が自分の匂いなら、環境や状況という「縁」によってその匂いは変わります。体臭を無くすことができないように、「業」を消すことはできません。自分では、どうすることもできないのです。
 そんな「業」を背負って生きる私たちは、「縁」によって悪臭を放つこともあれば、染香人のように匂い立つこともあるのです。

聞き続ける
 親鸞聖人は『尊号真像銘文』で、「染香人」を「こうばしき気、みにある人のごとく、念仏のこころ、もてる人に、勢至のこころをこうばしき人にたとえもうすなり」といいます。
 仏の智慧に染まった人、お念仏をいただいて生きる人を「染香人」と呼ぶのですが、そんな人たちでさえも、自らいい香りを放っているのではないのです。また、自らは香ることもできないのです。悲しいかな私たちには、そのような「業」はないのです。
 けれども香を焚き染めるように、教えを聞き続けるという「縁」をいただくことで、「こうばしき気、みにある人のごとく」と成らせていただく。
 聞き続けることの大切さを、伝えてくださるご和讃です。

  (機関紙「ともしび」平成28年7月号より)

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